4月10日(金):コロナ・ジェノサイド(21)~国民への信頼
今日のクライアント、若い男性だったが、にマスクを付けるように言っておいた。電車でも彼はマスクをしないそうだ。
僕は、一応、電車内だけはマスクを着用している。住宅街を歩く時なんかは外しているけれど、電車に乗る時だけはマスクを付ける。
それでも一日だけマスクを忘れたことがある。帰宅時だ。職場を後にしてからマスクを忘れたことに気づく。取りに戻るのもしんどかったので、そのまま駅に向かい、電車に乗る。できるだけ人と距離を取ればいいだろうと思う。
しかしまあ、心配するようなことはなかった。僕がマスクを付けていないと、周りの人が僕から距離を取ってくれる。中には白い目で見る人もあったけれど、僕だって好きで無着用なのではないのだ。気にしないことにする。
さて、そういうことが起きるのだ。マスクを付けていないというだけで、目立ってしまうのだ。そして、そうなると人から叩かれることを覚悟しなければならない。人が殺伐としている状況では、目立つことは標的になってしまうのだ。
しかし、まあ、マスクの着用か否かよりも、外出の方だ。緊急事態宣言により外出は控えるよう求められている。先日も書いたように、人との接触を8割減にするということは、限りなく都市封鎖に近い状態である。実際には3割減程度しか達成できていないらしい。そりゃそうだ。どの人も、基本、いつも通りの生活を送っているのだから。
僕は、いっそのこと都市封鎖してしまえばいいのにと思っている。中途半端なことをやるから、どっちつかずのことをやってしまう人が現れるのだとも思う。
それに関して、サッカーのキング・カズ(と言うらしい)がツイッターか何かで訴えてるらしい。政府の要請に批判もあるが、それは国民を信用していることなのだ、と。つまり、外出自粛要請をして、禁止令を出さないのは、政府が国民一人一人がその要請を真面目に守ってくれることを信じているからだというわけだ。
ああ、なんてポジティヴなんだろうと、僕は聞いていて感動した。さすがスポーツ選手は言うことが爽やかだ。僕にはとてもできない。
もし、政府が国民を信頼しているなら、禁止令はしっかりだすべきだと、僕は考えている。これはダメって禁止すれば、国民はそれを守ってくれるだろうと信じているわけだ。だから国民を信用しているなら、国民への発令は明確でなければならないと思う。いや、むしろ、信用しているから、禁止を禁止として出すことができると思うのだ。
ところが、自粛の要請ということで、不要不急の外出は控えましょうということで、国民の判断の幅が広いのである。つまり、漠然としたことは伝えておいて、後の細かい所は国民に委ねられているのである。実はこれは甘えなのだ。これ以上言わなくても、後はあなたがたで分かってねというわけだ。言わなくても分かってっていうのは甘え以外の何物でもない。
キング・カズさんの誤謬は次の二つである。おっと、こんなことを僕が言っても、別にカズさんを批判する意図はない。カズさん以外の誰かが言ったとしても僕は同じことをここで書いただろう。
一つは、国民はみんなスポーツマンではないということだ。スポーツの世界における信頼ってあると思う。コーチと選手の間の信頼関係とか。もしかすると、そういう信頼関係を念頭に置いているのかもしれないんだけれど、政府はコーチではないし、国民はすべて選手というわけではない。関係性が異なるわけだ。
もう一つの誤謬は、この政府が国民を信用している政府であるかどうかである。どこかその根拠なり、過去の経験といった証拠になるものを挙げてもらいたいところである。もし、国民を信用しているなら、どうして給付を出し渋るのだ。国民全員に給付すればいいではないか。
以前、麻生政権の時に給付金を出した。その時、給付金は消費に回らなかった。あれは失敗だった。だから同じ失敗をしたくないという。これって国民を信用している政治家の言葉であるだろうか。前の時は失敗した、あれと同じことをあなたがた国民にやれば同じ失敗をしでかすだろうというわけだ。こんな議論、国民への不信感しか僕には感じられない。
国民は国から信頼されているなどと己惚れることなかれ。
カズさんのような見解は(カズさん個人がそうというわけではない、ということにご注意を)自己愛的なものである。上が曖昧な表現をするのは上が自分たちを信頼してくれているからだというこの種の見解は、自分たちがいかに素晴らしいかという認識の上に成り立っているのである、と僕は思う。これは自己愛的な認識である。
もっとも、必ずしもそれが病的であるとかいう意味ではない。健全な自己愛の範囲内である。その代わり、若干の理想化が含まれ、この理想化が現実を歪曲してしまっている部分があるかもしれない、そう思うのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)