4月1日:写真

4月1日(月):写真

 

 今日から4月であるが、僕は今週の作業を引き続きやっている。僕の一週間は水曜日から始まり、月曜日で終わる。従って、今日が週の終わりということになるわけだ。

 今週は、けっこう仕事の方に空きが生じた。年度の変わり目なので仕方がない部分もあるんだけれど、月末がヒマになるのはけっこうキツイ。しかし、仕事が少なくなったのをいいことに、室内の資料処理などを実施する。

 資料というのは、まあ紙資料ということになるのだけど、これは職場内に仕舞ってあるものと家に持って帰ったものの両方を含んでいる。それらをシュレッダーにかけて処分する。まあ、たいへんな分量だった。

 もう一つ処分したのは僕の写真である。これをデータ化した。つまり、スキャンしてパソコンに取り込み、CDに書き込むのである。写真ではなく、画像として保存する、CDにして保存するというわけだ。

 僕が聞いた話では、こういう写真の処分に困るということだ。人が亡くなる。遺族がいる場合は遺族が遺品整理するし、遺族がいない場合であれば、市の職員だったり民生委員の人だったりがその業務に当たったりする。その時、故人の写真というのがけっこう困るらしいのだ。故人その人が写っているためである。そこで少しでも身内の人を探し出して、その人に故人の写真を渡したりすることもあるそうだ。

 故人が使用していた品物とか道具なんかは抵抗が少ないんだけど、写真っていうのは処分するのにそれだけ抵抗感が高まるということだ。それを考慮すると、生きている間にそういうものは処理しておかなければならないということになる。それで、僕は今回それをやったわけだ。

 写真の現物は処分するけど、それらはデータとして保存されているので、必ずしも写真そのものを遺棄するわけではないのだ。ここは意味が違ってくる。自分の過去や思い出を消去することが目的ではないのだ。写真として残さないということが目的である。過去は過去として残し、過去の自分がどんなだったかを見たくなった時にはそれを見れるようにしておいた方がいいと思うのである。

 これもまたけっこうな時間がかかった。一枚一枚スキャンしていく。自分では写真が少ない方だと思っていたけれど、やってみるとけっこうな労力を要した。そこで、自分が写っていない写真は残さないことにした。友達だけが写っている写真とか、そういうものは処分することにした。そうすることで全体の枚数を減らしたわけだ。

 この一週間で600枚くらいは写真をスキャンし、処分した。実家にはまだ写真があるはずなんだけれど、一応、ここで一区切りつけることにした。

 

 それにしても、ゴミ袋が7つも満杯になったのに、室内がまったくスッキリしたようには見えない。それもそのはずで、すでに片付けたものを処分したからである。その空いたスペースに、これからさまざまなものを突っ込んでいくことになる。そうして目に触れなくなると、いつしかそれらの存在を忘れて、ある時、ここには何が入っていたんだっけなどと思い、その蓋を開けてみてビックリというオチになる。そして、こんなに溜め込むのは良くないなどと思い、それらの処分をしていくことになる。いつもこれの繰り返しである。

 とりあえず、予定の作業はほぼこなした。少しだけ残った部分もあるけど、それは予備日である明日にやろう。それで一応、今週の予定は終わりだ。来週は来週で予定を組んでいる。そちらに切り替えていこう。

 

 それにしても、昔の写真に写っている僕、特に中学時代のやつなんか、ひどい顔していたなと思う。高校時代の顔はまだ見れる。大学時代の顔は、これがまたイヤなんだ。いや、顔だけでなく、やっていることも好きになれない。

 自分では気づかなかったけど、病んでる時期は顔つきが悪くなるものだな。当時はそれで普通だったから自分の顔に違和感がなかったのだろう。本音を言えば、過去の自分は闇に葬りたいところである。でも、写真は闇に葬ることはできても、過去の経験は無かったこにはできないのである。イヤでも受け入れていかなければならないものだと思う。生きるというのはそういうことなんだと思うのである。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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