3月5日:書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(6)

3月5日(金):書架より~『買い物しすぎる女たち』を読む(6)

 

 さて、今回は第6章を取り上げる予定であった。この章では恐らく共依存のテーマが出てくるのだろう。僕は読まないことに決めた。もうこの本に関わることが時間の無駄に思えてきたからである。僕はもっと自分に必要なことのために貴重な人生の時間を使おうと決めた。

 

 感情を押し殺すことと、感情を抑制することの区別もつけないような本だ。必要な否認と望ましくない否認とも区別しない本だ。創造性と産出性の区別もつけない本だ。データに基づいて言うことと自分の個人的見解とも区別しない本だ。

 内容が支離滅裂過ぎて僕には一切訳が分からない。僕は本書を心理学の本とはみなしていない。生理学の本だとみなしている。本音を言えば、そのどっちでもないという感じがしないでもない。

 

 すでに述べたように、著者には主体の観念が欠けているように思う。目的や発達、成熟といった観点も欠落しているようだ。幼児期・児童期と大人になった現在とは直結しており、その間の経験が無視されているように思えてならない。本書の中に否認がたくさんあるように思う。そして、あまりに単純な因果論に陥っているように思うのであるが、これは物事を簡略化したいと欲する人たちには打ってつけの理論だろう。

 AC理論とか、それに準じる理論、それに類する理論に僕は賛成できないけれど、そういう理論は別にあっても構わないと思っている。いろんな理論がある方が学問は豊かになると思うからである。ただ、これが本当に学問的であるかというと、僕は疑問である。宗教書のような感じを受けている。そこにあるのは一つのドグマである。

 そして希望も何も抱かせない本である。読者がどうすればいいかは著者が知っているということであり、それ以外の事柄は「否認」(著者が好んで使う言葉だ)されているようで、読んでいると著者の方法論を一方的に押し付けられてくる感じがする。

 

 僕の勝手な憶測であるけれど、この著者の生きている世界は狂気の世界ではないかという気がしてくるのだ。誰が狂気に陥っているかを判定したりされたりするだけの世界であるかのように思えてくる。そして、自分が狂気に陥らないためには、他の誰かを狂気とみなさなければならず、尚且つ、狂気に陥らせなければならなくなる。こうして、一方的に狂気が押し付けられてくるかのようだ。そうであるとすれば、その世界では一切の望みを持つことは期待できなくなる。まあ、僕の印象がどうであれ、とにかく、まともな人が書いた本という気がしないのである。

 

 第4章をもう一度読み返してみたけれど、どうしても機能不全の家族と買い物依存とが僕の中では結びつかない。機能不全家族に育つと、例えば、自尊心が低下するとか他人の目が気になるとか、見捨てられ感を持つとか言われても、どのようにそうなるのかは示されていないように感じるのだ。そして、それらの諸傾向がどのように買い物依存という行為に結び付いているのかも明確ではない気がするのだ。

 つまり、「仄めかし」に満ちているのだ。それらは相互に関係があると言うけれど、どのように関係するかは仄めかされている程度にしか説明されていないように思うのである。この仄めかしもまた、読者を自分でも意図せぬ方向に誘導するのではないかという気がしてくるのである。

 基本的に概念規定が弱く、著者の考えはあまり示されておらず、むしろ他者の引用で自己の思考を代用している観がなくもない。また、著者の個人的体験から得られた個人的な見解である分には構わないのであるが、そこから過剰な一般化が見られるようにも思う。この一般化の根拠として複数のクライアントたちのことが紹介されているが、基本的に、彼らの買い物依存はあまり触れられていない感じも受けている。もっとも、第7章辺りを読めばその印象も変わるのかもしれないけれど、そこまでやる意味が僕には失われている。

 

 AC信奉者は自分自身のことを親の被造物のように話す。おそらく自分自身をそのように体験しているのではないかと僕は憶測している。もし、そうであるとすれば、AC信奉者には主体性の感覚がないということになる。というのは、自分をモノのように体験しているからであり、そこではただ周囲の影響を受け身的に受けるだけの存在であるかのように自分自身を体験することになるだろうと僕は思うのである。彼らは自動機械のように思考する。その思考は自分自身を幾何学的図式の中にはめ込むというものだ。その図式の外に出るという思考を彼らはしないのである。それも主体の欠如を示しているのではないだろうか。

 この主体の欠如に彼らは気づいていないだろうと僕は思う。これは不幸なことである。AC理論、本書も含めてであるが、これらが主体欠如を後押しするように作用する。というのは、この理論そのものが主体性を欠いているからである。

 狂った理論を正しいと信じて実行する人は狂人とみなされる。当たり前の話である。AC信奉者がどうして他の人たちから孤立しなければならないのか、一目瞭然である。彼らの信奉する理論が、その他の健常者(とまでは言えないかもしれないけれど)から見れば異常なのである。他の人たちはその理論についていけないのである。そして、ついていけない人たちの方が社会適応できているのであれば、やはりその理論の方がおかしいということになる。

 いや、これは実際そうなのだ。それまで苦労しながらでも社会適応してきた人が、AC信奉者になってからは廃人のようにしか生きられなくなっていたりするのである。AC理論を信奉することで、明らかにその人から大切な何かが奪われたのだと僕は信じている。いずれにしても、これは人を無力化させる理論であると僕は思う。この無力化してくる圧力に対して、僕は憤りを覚えてしまうのだ。本書で感じた怒りもそういう種類のものであると僕は考えている。僕は怒りを覚えるけれど、それを親に転換させたりはしない。本書は僕の親とは関係がないことが分かっているからである。本は本であり、人間ではないからである。理論と現実の人間との区別を僕はきちんとつける。

 

 本書は1990年代にベストセラーになったような本だ。今では信じられない話だし、信じたくない話である。「買ってはいけない」シリーズや「脳内革命」などという本がベストセラーになった時代である。少しでも学問をやった人間なら見向きもしないような本が売れまくった時代だ。本書も、少しでも心理学や精神分析を学んだ人からすれば、「なんじゃ、こりゃ」と思うような本である。あまりにもひどすぎる。

 ちなみに、僕の持っているこの本は、この後ゴミ箱に直行する運命にある。

 

<テキスト>

『買い物しすぎる女たち』(キャロリン・ウェッソン著)

講談社α文庫

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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