3月30日(火):コロナ禍を生きる~立派な死と立派な生
聖火リレーってあんな感じなんだ、改めて思った。ランナーの後か前かをスポンサーの宣伝カーが走るんだ。中でもコカ・コーラの宣伝カーが群を抜いているそうだ。大型の車両に、上部で宣伝マンたちが大声張り上げて煽動しているそうだ。
コロナ禍のオリンピックは盛り上がったら失敗なのである。それが分からないのか、敢えて煽るようなことをやっているのだから、スポンサーは自分の首を絞めるようなことをしているわけだ。何もかもがマトモじゃない。
そもそもオリンピックを見直そうという動きがあった。ギリシャやイタリアのようにオリンピックをやったら国が破綻するというようなことが起きるからである。そういうことのないようにしようという方向で世界が動き始めていたのだ。
今回の日本のオリンピックはその世界的な動きに真っ向から対立するものである。
今現在でもまあまあの悪夢だけれど、オリンピック後はもっと最悪な事態が待ち受けている。それは確実だ。
朝のワイドショーで東京の路上生活者のことをやっていた。コロナで仕事がなくなった人たちだ。とても先進国の国民の姿とは思えないものであった。オリンピックなんてものがなければ、もっとこういう人たちへの補償が行き渡っていたかもしれない。
3兆円規模のイベント。こんなものがなければ、もっと困窮者にもお金を回すことができたはずだと思うと、ますますオリンピックなんてものが呪わしく思えてくる。
ところで、マイナンバーカードを国民全員が所有していると補償ももっとスムーズにできるというのは事実である。
僕はカードは作っていない。通知はいただいている。僕の番号がある。最初からカードで送付してくれたらいいのに、そこからカードを作ろうとすると申請しなければならないという、この二度手間も腹立たしい。
しかし、マイナンバーカードの不信は、政府に対する不信を象徴するものだ。本当にきちんと運営できるのかどうか、国民は信用できないでいるのではないか。僕はその一人だ。
ちなみに、マイナンバーカードを全員が所有すると補償がもっとスムーズに運ぶというのはそうなのであるが、昨年の給付金に何か月も要したのはマイナンバーカードを皆が持っていないからだと考えるとすれば、それは少し論点が外れているように僕には見える。昨年の給付金は、マイナンバーカードの有無ではなく、施行の不統一にあると僕は思っている。最初からこの形で施行しますと、単一化し、明確化していれば、もっと違っていたと思う。カードを持っている人はカードを使って、その方が早いですよなんてことをやっているから煩雑になるのだ。
大阪では4月から再び飲食店の時短営業を求められる。多くの飲食店が従うだろう。一方で廃業するお店もたくさん出てくることだろう。この対策は感染ゼロにできないことが第3波で証明されているのにも関わらず、同じ対策をするのだから、結果は知れている。波間を作ることもできないまま第5波を迎えることだろう。
僕は毎日死ぬ覚悟で生きる。変異株に感染して、重症化して、そのまま死を迎えることになると僕の中では確信がある。幸か不幸か、これまで一度も発熱がない。体調が悪く、いよいよ感染したかと思ったことは何度もあるが、検温すると平熱だったりする。
僕は立派に死ぬ。立派に死ぬとは、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死を迎えるということだ。眠って、そのまま起きなかったという死に方は、かつては羨んだこともあるけれど、今はそれを望まない。
その立派な死を迎えるまで、僕は立派な生を生きる。立派な生とは、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて生きることである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)