3月25日:自由

3月25日(水):自由

 

 今日、新規のクライアントをお迎えすることができた。僕としては喜ばしい限りである。もちろん、継続中のクライアントも大事なのであるが、新たに来てくれるということは、ウチがまだ多くの人のリビドーをカセクシスする対象となり得ているということなので、特に嬉しいのである。

 何もそんなカタカナを使わなくてもよくて、要するに、ウチに魅力を感じてくれる人がいるということであって、そういう人の存在を僕は嬉しく思うというだけのことなんだけど。

 

 さて、今日のクライアントもそういう話をしたし、昨日のクライアントもそうだた。過去にも同じような場面を話されたクライアントが多くおられた。何のことかと言うと、「自由」ということである。

 夫婦があるとしよう。どちらのケースもある。妻がもっと自由が欲しいと夫に言う。夫は妻の仕事を辞めさせ専業主婦にするなどがある。夫がもっと自由が欲しいと言えば、妻が夫に自分の時間を持つことを勧めるなどがある。どの場合でも「自由」の意味が履き違えられているのである。

 妻が「自由」が欲しいと言う場合で述べよう。夫は、妻に無関心でない限り、妻の要望に応じようとするだろう。妻が多忙すぎるのだと夫が考えれば、妻の仕事を減らすことで応じるだろう。妻が家に籠り過ぎるためだと夫が考えれば、妻に外出の機会を与えようとするだろう。いずれにしても、夫は妻の要望を正しく理解できていないのである。

 しかしながら、この場合、夫が全面的に悪いわけでもなく、また、鈍感なために理解できないというわけでもない。ここはきちんと押さえておこう。また、同じように、それを言う妻も本当に自分の言いたいことが言えているとも限らないので、妻の真意が夫に伝わっていないという可能性も考慮しておこう。

 そもそも「自由」という言葉が多義的であるために誤解が生じるのである。この言葉はさまざまな意味合い、ニュアンスを含みうるものだと僕は思う。

 夫が前述のような誤解をしてしまうのは、「自由」を「拘束の反対語」としての意味しか汲み取っていないがためである。自由が欲しいと訴えられれば、拘束を緩めればいいと、ある意味では安直に、そう考えてしまうのである。

 そうして拘束を緩めてもらい、数多くの義務から解放されたとして、夫はそれで問題解決したと信じるかもしれないけれど、妻はやはりその自分が自由とは思えないのである。それもそうである、自由とは心の状態であるからである。心の状態がそのままであれば、いくら外側の拘束を解除したところで、妻は自由を感じることはないのである。

 彼らが「自由になりたい」と訴える時の「自由」とは、ある特定の心の状態を指しているものである。心の落ち着きとか、平安とか、そういう状態を求めている時に、「自由になりたい」という表現がなされることも多いのである。その表現を受け取る側、ここでは夫ということであるが、夫はその意味を把握し損ねてしまうのである。

 今日のクライアントも、昨日のクライアントも、「自由になりたい」という訴えは、心のわだかまりから解放されたい、そういう心の状態になりたいということなのだと僕は信じている。だから、仕事や義務から解放されても、あるいは夫婦関係を解消したとしても、彼らは決して「自由」にはなれないのである。外側のものをいくら操作したり変更したりしても、心が変わらない限り同じなのだ。

 だから、自分の好きなことだけやってるというような人でも全然自由でない人もあれば、自分の時間がまったく持てないほど多忙な人でも全然自由な人もあるのである。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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