3月25日(火):堕ちよ!
昨夜は酒を飲んでしまった。別に飲んでも構わないのだけれど、健康のために控えようとは思うのだが、まあ、適度に飲むくらい罪にはならんだろう。
昨日は仕事を終えると、何て言うのか、ズシーンと重たいものが気分にのしかかっていた。とても辛く、切なくなって、一杯引っかけてから帰ろうと決めたのだ。
「結婚はしないの」と言ってくれた女性が働いている店に行く。上手い具合に、その彼女の勤務日だった。彼女も僕のことをよく覚えていてくれた。
差し出されたウイスキーを啜る。少しも美味しいとは感じない。その時、初めて気づいた。酒を飲みたいのではなくて、とにかく誰かと居たいという気持ちでいたのだと。あのズシーン感は見捨てられ、見放された人の体験する孤独感だったのだ。
昨日は朝のうちは外回りをやったり、業者と連絡取り合ったりで、割と余裕があった。午後から、三人のクライアントと面接した。三人ともひどく重たいものを僕に残していってくれる人たちだ。本当かどうか僕は未だに半信半疑なのだけれど、クライアントからそういう感情を貰うくらいの方がいいとかつての師匠から学んだ。臨床家が分け持つ分だけクライアントはラクになるということらしい。
誰かと居たいという気持ちは、そのまま彼らの抱えているものを表しているのだ。それが分かると、彼らのことがもう少し理解できた感じがする。
今日は、昨日の外回りでやり残したことをこなして、昼からはゆっくり休もうと決めた。実際には帰宅したのは夕方頃になっていたけれど、買ってきたCDを聴きながら、ワインを飲む。眠気がさしてきて、そのまま眠る。
起きて、これを書いている。今日はのんびりして過ごすことができた。明日から二週間は休みがないのだから、ゆっくり羽を伸ばしておこうと思う。
サイトのことをしないといけない。これがものすごく時間を要する。通常の仕事に加えてそれをしていかなければならない。おまけに、この二週間に勉強会が二日、シンポジウムが二日入っている。どちらも参加するだけなのだけれど、興味のあることにはとにかく参加してみる。何か得るもの、経験するものがあるはずだ。
自分を解放し、心を自由に漂わせ、内にあるものをそのまま言葉にしてみる。僕がカウンセリングでクライアントに求めることはそれだけなのだ。でも、それをできない、もしくはしてはいけないと頑なに信じているクライアントたちも多い。昨日の三人もそういうタイプの人たちだった。
昨日のクライアントたちに限らないけれど、クライアントを見ていると、上手く生きようとしすぎていると言うか、綺麗に清く正しく生きようとしすぎている感じがしないでもない。堕ちないでおこうとして、非常に脆いものに必死にしがみついているような人もおられる。個人的には、いっそのこと堕ちてしまえばいいのにと思うこともある。堕ちてみて初めて見えるものもあるからだ。ユングの言う死と再生とはそのことだと僕は思う。
エリア・カザンの『アメリカの幻想』という長編小説がある。僕の好きな一冊だ。この小説も死と再生をテーマとして含んでいる。いつか、この本を取り上げたいと思いながら数年経ってしまったが、人は生の底辺に堕ちて、初めて自分と向き合うことができる場合もあるのだ。
しかし、昨夜、改めて認識したけれど、飲み屋というのは話のネタの宝庫だなと思う。店の人、他のお客さん、その時々で僕が思い出す事柄、いろんな発見がある。どんな人がカラオケでどんな曲を歌うかにもその人らしさを感じる場合もある。見ていると、いかにもその人らしい歌を選び、その人らしい話題を挙げ、その人らしい物言いをするものだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
飲酒はいいことはないけど、飲み屋で学んだことも多い。いろんな人を見ることができるというのもメリットだ。ただ、いつも学びが得られるとは限らないけど。
それと、だんだんとクライアントや面接のことをブログで書かなくなってくる。この頃はまだ多少は書いていたのだなと思う。
(平成28年12月)