3月25日(水):コロナ・ジェノサイド(11)~アスリートラスト
コロナ騒動に関して書くのもいささか疲れていた。僕個人は人類はコロナに、負けるとまでは言わないけど、相当なダメージを食らうことになると信じている。以前のサーズやマーズと違う点は、当時よりも人間と社会が劣化しているところにあると僕は考えている。それがコロナ感染の拡大をもたらしていると思っている。
さて、コロナ感染が流行するのとオリンピックイヤーとが重なったのは日本にとって大打撃である。昨日、オリンピック開催の1年延期が決定したとのこと。
延期が確定したけれど、不思議と驚きもしなかったし、何を今頃というのが正直な感想である。予定通りの開催はとても無理だということが目に見えていたのに、政府は開催するつもりでいたのだから能天気と言おうか現実が見えていないと言おうかである。
首相はオリンピックを完全な形で実行すると言っていた。この「完全な形で」という表現に、その望みの薄さが感じられていた。
僕は不思議だった。どうして「当初の予定通りに実行する」とは言わずに「完全な形で実行する」と言ったのだろう。ひどく曖昧さが増した表現である。一体、「完全」とは何がどのように完全ということなのか、不明瞭である。僕には何か明言を避けるようなところが感じられていた。
当初の予定通りにとか、通常に開催するとか、そういうことがもはや言えなかったのだと僕は思う。それが無理であることは自明であったのに、無理であるということは口が裂けても言えなかったのだろう。その妥協形成物として「完全な形」という過度にその反対を強調するような表現が生まれたのだろうと思う。つまり、例えば、「弱い」人が自分の弱さを自覚すればするほど強さを強調したがる(強がりする)のと同じようなものだ。
よく言えば、最後まで無理であることを言わないでおこうとしたように見えるし、悪く言えば、優柔不断さしか見えない。まあ、首相の言葉なんて、僕には関係がないし、興味も覚えない。
オリンピックに関して言えば、アスリートファーストなる言葉もよく聞いた。僕は好きになれない表現だ。どうしてアスリートが優先なのか、意味不明である。
しかし、本当にアスリートファーストであるなら、延期はもっと早く決断していなければならないはずだ。開催されるのか延期されるのか、いつまでも不明な状態がアスリートにとって一番困るはずだと僕は思う。従って、アスリートファーストを実践するならば、少なくとも一か月前には延期を決定していなければならなかったと思う。
オリンピックは今年は中止であり、来年に延期になりました。選手の皆さんは来年にむけて調整してください。そういう表明が早ければ早いほど、選手は手が打てるのだ。来年に向けての準備、調整、計画が早期に着手できるのだ。
ズルズルと決断を長引かせて、選手を停滞させる。これのどこがアスリートファーストなんだと僕は思う。むしろ、アスリートラストじゃないか。
同じことは国民に対しても言える。「国民のことを第一に考えて」などといった表現を耳にする機会も多い。政府は国民ファーストでやってるつもりでも、現実には国民ラストなのだ。
先日の三連休でも多くの人が外出した。政府は不要不急の外出を自粛するよう要請しているのだけれど、その不要不急の判断は個々人に委ねられている。
例えば、ずっと家に籠っていた人が、息が詰まりそうだと感じ、繁華街に出た。この外出は傍から見れば不要不急である。でも、当人にとっては必要不可欠の外出に感じられているかもしれない。この人は自分が不要不急の外出は控えていると信じているかもしれない。
不要不急が明確に定義されていない上に、自粛が「要請」されているという曖昧さがそうした外出を生み出すと僕は思っている。イタリアのように、食料や日用品の買い物以外の外出は禁止すると言う方がより明確であり、国民一人一人に共有される行動指針となる。日本政府はそういう指針を打ち出さないのだ。打ち出すことを控えているのか、打ち出すほど自己が明確になっていないのか、どちらであるかは不明であるが。
国民ファーストであるなら、そういうことは明確に打ち出すものである。明確に打ち出せないのは国民ラストになっている証拠ではないだろうか。
今の話は、シチュエーションを変えて述べるとよく分かると思う。
例えば、子供が断崖絶壁のほうに走っていこうとする。親はそういう子供を制止するだろう。あっちは危険だから行ってはいけないと、そうやって子供に禁止を与えるだろう。子どもが断崖絶壁から落ちるかどうかは分からない。でも、子供の安全を第一に考えたら、親のこの制止と禁止は当然出てくるものではないだろうか。
一方、断崖絶壁から落ちなければ行ってもいいよ、と子供に言う親がいるとしよう。あるいは、断崖に近づけば落ちる可能性があるけれど、そこまで行くか行かないかは子供の自由にしていいよ、と子供に言う親がいるとしよう。禁止や制止を与える親と比較して、どちらがより子供の安全を考えているかは一目瞭然である。
しかしながら、落ちなければ行ってもいいよと言う場合が、制止や禁止よりも適切である場合もある。もし、その広場の向こうが断崖絶壁ではなく、ちょっとした段差くらいであれば適切である。危険度がかなり低い場合にのみ有効だ。逆に、危険度がかなり低いにも関わらず、子供に行ってはいけないと制止・禁止する親はいささか行き過ぎであり、これは親の不安の強さを示している。
つまり、親がどの程度危険を正しく評価しているかで変わってくるわけだ。断崖絶壁の方に行くなと禁止する親は、その危険性をより正しく評価できているわけである。ちょっとした段差であっても行くなと禁止する親は、その危険性を正しく評価できていないということになる。従って、子供の安全を第一に考えるということは、その親が子供の陥りそうな危険を正しく評価できているという前提に基づいている。
アスリートファーストであれ、国民ファーストであれ、政府がその安全を第一に優先するのであれば、政府は危険を正しく評価できていなければならない。僕はそこは疑問であると感じている。
人の流れが危険であることはずっと前から言われていた。人が密集する場面も同様だ。それでもオリンピックは完全な形で実行すると公表できるということは、危険を正しく評価できていないことの証拠であると僕は思う。
そうした証拠はゴロゴロ出てくる。感染が拡大するヨーロッパからの帰国者が空港で検査を受けた。この時、検査官は4人だけであり、マスクを着用しているだけであったという。加えて、検査結果を待たずに帰宅した人もあるという。帰国者は二週間隔離状態になるのだけれど、宿泊施設も用意されていないとか。
これらのことはすべて政府が危険性を正しく評価できていないことを表わしているように僕には思えるのだけれど、それが正しく評価できないのは、このウイルスが未知のものであるからとか、こういう状況を日本が経験したことないからであるとか、正確なデータが得られていないからであるとか、いろいろ理由はあるであろう。
しかし、根本にあるのは、政府の、ひいては日本国民の現実検討力の衰退にあると僕は思っている。現実吟味できなくなるとは、その事態が手に負えないためでもあるが、事態に対して自我が機能できなくなっているということである。そして、わずかに機能できる範囲で、つまりより低次の機能でもって、対処するので、せいぜい現実否認をやるしかできなくなっているのではないだろうか。より低次の防衛機制しか働かせることができなくなっている状態ではないだろうか。精神病水準の状態に日本が陥っているのではないだろうか。アスリートファーストも国民ファーストも、すべて彼らの妄想である。僕はそんなふうに感じている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)