3月21日:幸せと願望

3月21日(水)幸せと願望

 

 夜はYさんと会っていた。帰ったらお風呂に入って、きちんと体を温めてから寝ないといけないよというYさんの忠告に従って、言われた通りにした。風呂で体を温め、布団に潜り込んで、布団の中でこの文章を書いている。

 僕はあんまり風呂が好きではないのだ。湯船にはほとんど入らない。いつもシャワーだけで済ませる。銭湯に行くことがたまにあるけれど、そこでも体を洗い、後はサウナで汗を流す。湯船に浸かるのはほんのついで程度である。子供時代の水恐怖症の名残である。この水恐怖のことはいずれ機会があれば書いてもよいと思っている。でも、今日はこのことではなく、せっかくだからYさんとのことを書こうと思う。

 今の僕には、Yさんが居てくれるのがとてもありがたい。Yさんがいなかったら、僕の生活はとても孤独なものになっているだろうと思う。毎週会っているのに、それも週に二回の割で会っているのに、今日と昨日はなぜか僕は照れてしまって、どうにも立つ瀬がない感じがしていた。他人行儀で余所余所しいと、Yさんには感じられたのではと心配している。Yさんは「疲れてない?」と訊いてきたけれど、疲れているように見えたのだろうか。それならそれでいい。実際、疲労感はあるのだから。

 意識してしまうから照れるのだろう。Yさんのことを「女」と見始めているのかもしれない。それまではどこか「子供」扱いしていたかもしれない。確かにそういう見方をしていた節があった。知らないうちにYさんを見る見方が変わってきたのかもしれない。

 Yさんは僕のブログを読んでいるらしい。前週の遠足のことを書いた分、「こんなに幸せでいいのかしら」というYさんの言葉について書いた分のことをYさんが訊いてきた。僕は自分の考えをYさんに話した。そこで、前回書き損ねた部分があるということに気づいたので、今日、この機会に補足しておこう。

 僕の考えは至って単純で、幸せを感じている時は、その幸せを全身でもって体験したらいいというだけのことである。まず、酒を例にしてみよう。僕は今断酒をしている。でも、酒を呑む時は、酒に集中し、酒を愉しむことに専心すればいいのである。しかし、ここからが前回書き忘れた所だ。僕は酒を呑みたいとは思わない。だから僕は断酒の方に専念している。時々、酒を呑みたいという欲求が起きる。一方で、酒は呑みたくないという願望もある。両方があるから葛藤するのである。片方だけなら葛藤は生じない。呑みたい欲求よりも、呑みたくない願望の方が勝るので、断酒を続けていられるのである。この時、僕は自分の願望に忠実であり、そこに不一致は見られない。酒を呑みたいのに、呑むことを禁じられているというような状況だったら、断酒は苦行にしか過ぎなくなるし、断酒に専念することもできないだろう。

 つまり、こういうことなのである。Yさんが「こんなに幸せでいいのだろうか」と言う時、Yさんがそういう幸せを望んでいるのであれば、その幸せは全身で体感するべきである。自分の望でいるところのものと一致している(もちろん完全に一致しなくても、大体一致しているという程度であれば十分である)という前提が不可欠なのだ。この前提の部分を前回は書き忘れたわけである。

 しかし、世の中にはひねくれ者もおるもので、僕はしばしばこういう人たちとお会いするのであるが、そのような人はこんなことを言うかもしれない。「人を殺したいという願望があれば、その人は人殺しに専念するべきだと言うのか」と。これまた愚かな質問である。そもそも人を殺したいという「願望」は(そういう「願望」があるとしての話であるが)、二次的なものであり、「偽りの願望」であると僕は捉えている。「本来の願望」が他の所にあるものである。「本来の願望」が挫折するから、人を殺したいという「偽りの願望」が生じるものなのである。従って、その人は自分の「本来の願望」に気づき、それを現実的または象徴的に実現していくことの方が、よっぽど健康的で建設的な生き方なのである。そして、その人が「本来の願望」を体験している時には、その体験に専念してよいのである。大抵の場合、その「本来の願望」は危険なものではないものである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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