3月20日:吹っ切れる

3月20日(火):吹っ切れる

 少しばかりキツイ日々が続いた。特にこの一週間くらいは辛いことが多かった。そして、昨日がそのピークだった。ヘトヘトに疲弊し、つくづく自分がイヤになってくる。

 昨夜は酒を飲んだ。もうガマンがならんという思いで。飲み屋にはいつもの顔馴染みが顔を揃えていた。あまり仕事の話はしたくないけど、今日はちょっと落ち込んでるねんと伝えておいた。不機嫌だと思われるのもよろしくないと思ったからだ。

 でも、彼らの中の一人は、「人間落ち込んでるヒマなんてないねん」と言っていたな。その通りだ。ゆっくり落ち込みたくても、外側の要請が僕に課せられる。どんなことがあっても日々の営みをしていかなければならないし、その要請に応じていかなければならないのだ。甘えたことは言ってられない。

 今日は墓参りに行ってきた。両親が行くというので、僕も便乗させてもらった。当初の予定では行かないつもりでいたが、急遽、僕の予定を変更した。

 墓地からの帰路に母が前々から気になっているという天ぷら屋さんがあるので、いい機会だからみんなで行こうということになった。天ぷらは美味しかった。いや、本当に味わって食べていたか定かではないのだけど、家族が揃っての食事ということで意味が感じられていたのかもしれない。

 母を見ていると、僕が落ち込んでいるとか、壊れそうだなどと言うわけにはいかない。やはり、僕の内に秘めておくべきだと思った。

 午後から高槻に出る。職場に入って「内省録」を一本書き上げる。それに対する「解説篇」も大雑把に仕上げている。何となく自分を語りなおしたくなっていた。

 その後、特に何をしたわけでもない。あれやこれやとやらなければならないこともあるけど、一向に気が乗らない。

 ダラダラと論文をいくつか読む。その程度だ。

 それでも、何となく気分が回復してきた感じがある。結局、治らない人は治らないのだ。根本に誤解があるのだ。治るか治らないかではなく、その人が治る人間になるか否かなのだ。自己の形成が先に来るものなのだ。もし、その人が治る人間になれば、どんな治療法でも、あるいはどんな治療法に反してでも、その人は治ると僕は信じている。ベネデッティも似たようなことを言っている(ただし、ベネデッティは「治る人」といった概念を持ち出しておらず、その人に必要な言葉、解釈の投与を言っている)のが心強い。

 夜、喫茶店にて、これからの予定を組む。明日からの一週間だ。どれだけのことをするか、どれを優先的にやっていくか、リストを作成し、仮のスケジュールを組み立てる。「仮の」というのは、他の予定がそこに割り込んでくる可能性があるからである。

 そんなことをやっていると、ますます僕の中で吹っ切れていくものが生まれてくる。どれだけ落ち込もうと、どれだけ痛めつけられようと、どれだけ失敗してしまっても、僕は壊れない。生が僕に次々と要請を吹っかけてくる。生が僕を導く。ヘコたれてんのも今日までだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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