3月19日(月):疲労感と鬱
今日は午後までは非常に元気であった。朝は7時半頃に職場入りして、昨日の大掃除の続きをする。そのまま14時くらいまで割と活動的であった。ところがその後がいけない。急に疲労感に襲われてしまったのだ。いささか無理をしたかなと自分でも感じているが、それが急に襲ってきた感じである。
先日から若干躁的になっていたかもしれない。僕はたまにこういうことをしてしまうのだ。過活動な期間を過ごしてしまうのだ。過活動の時期に、いろんなことをやるのだけれど、その内の幾つかは未完遂に終わるのである。こうして仕事が溜まっていくのである。僕のパターンである。これはどうしようもないのかもしれないと半ば諦めている。
僕は僕の性格からして、鬱になりやすいということを自覚している。鬱的になると活動量が低下するので、その分、躁的な時期に取り戻そうとしすぎてしまうのである。今回、躁的だったとは言え,このまま鬱期に入るという感じではない。何度もこういうのを繰り返していると、多くのことが分かってくるものであって、鬱期に入る前にはもっと独特の感覚がある。それが今回は感じられないので、鬱期にそのまま突入するとは思えないのである。
この独特の感じと言うのは、最初は疲労感である。今日も疲労感を覚えているが、もっと疲労の感じが違うのである。質が違うと言ってもいいかもしれない。鬱期に突入しそうな、いわば危険な疲労感というのは、もっと虚無感を伴った疲労感とでも言おうか。何をしても意味がないという、どこか虚無的な色彩が濃い疲労感なのである。そういうものを今は感じていない。どちらかと言えば、僕が今日体験しているのは、ごく当然の疲労感という感じがしている。
疲労感に先だって、僕には一つの信号がある。この信号が見られると要注意である。それはタバコの本数が増えるということである。いつもよりもタバコの本数が増えるということは、いつも以上に自分を落ち着けようとしていることを意味し、同時に、いつも以上に活動が低下していることを表すからである。タバコを喫う時は、基本的には何もしない。何かしながらタバコを喫うということを僕はあまりしない性質なのである。だからタバコの時間が多いということは、その分活動が減少しているということである。
何か作業しては、すぐにタバコが欲しくなって、手を休める。喫煙という代理行動があるので、一見すると活動量が低下したということに気づかない。時々、自分でもそれを見落とすことがある。この2,3日はタバコの本数を減らしていた。今日はそれが元に戻った感じである。これを増えたと見做していいのかどうか微妙なところがある。いずれにしても、気をつけなければいけない。
僕はこんな具合に自分の鬱と付き合ってきた。クライアントを含め、多くの人は治るか治らないかということに拘り過ぎるきらいがある。僕はそれは二次的な問題だと思っている。自分の傾向をよく把握し、その都度、自分自身をモニターして、前もって対処していくだけでも、「病」というものとはかなり縁遠くなるものである。
さて、今日の僕を「診断」してみよう。疲労感はある。これは危険信号だ。そして、タバコもそれなりの本数に達している。増えたとは言えないが、昨日よりかは喫う時間が増えている。これも注意が必要だ。いささか活動量の低下が見られるが、虚無感は感じない。虚無を感じないということは、気分的に鬱的になったとしても、僕に体験されている世界が変わったわけではないということであり、そこまで至っていないということだ。従って、多少の抑うつ感はあっても、長引くことはなさそうだ。飲酒欲求に襲われていないということが、この希望を裏付ける。「うつ」とアルコールは相性がいいからである。もちろん、悪い意味での相性である。気分が落ち込むと酒を呑んで憂さ晴らししたくなるものだろう。「憂さ」とは「うつ」のことではないか。だから「鬱」的な気分ほど、人は酒を呑みたがるものである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー:)