3月14日(水):脚本
今日は特に忙しいわけでもなかったのに、やたらと疲労感に襲われる。精神的な疲労感だ。空き時間はできるだけ休息することにしたが、それでも気分が重たかった。
腰痛の方はけっこうましになっている。ふだんは痛くない。特定の動作をする時にだけ痛みを覚える。座ったり立ったりは苦もなくできるようになった。床に落ちたものを拾う時とか、前かがみになる時に痛みがある。
いくつもの作業を抱えている。あれもこれもしなきゃと思う。でも、気持ちばかりあせる一方で、落ち着いて着手することができないでいる。ゆっくり計画的にやっていった方がよさそうにも感じている。
夜。なんとなく不全感がある。なんとなく今日一日をこれで終わらせることに抵抗感がある。少し酒でも飲もう。
と言うことで、一昨日、飲み友達に連れて行ってもらった飲み屋に顔を出す。こじんまりした店だけど、静かに、独りで飲めそうな雰囲気がある。要するに、あまり邪魔されたくないのだ。静かに飲みたい気分なのだ。
静かにビールを飲んでいる。最初は僕一人だったけど、後から一人、さらに二人の客が入ってきた。彼ら三人は顔見知り同士だったのか、お喋りをしている。なんか宗教がらみの話をしている。僕にはどうでもよかった。
僕の座った席がたまたまテレビの前だった。テレビでは何かドラマをやっている。「ああ、これが『相棒』ってやつか」と思い、見るともなしに見てしまう。
途中から見たので、尚且つ、見たり見なかったりしていたので、まったくストーリーが分からなかった。けど、恐らく退屈なドラマなんだろうと思った。流行のドラマで面白いと思うものがない。
一番の問題は脚本である。要するにシナリオだ。映画でもドラマでも、いい作品のシナリオには耳障りな雑音がないのだ。セリフがスッと耳に届く感じがあるのだ。字幕で読んでもそうなのだ。
今回、「相棒」というドラマを見て、とかくセリフが聞き辛いと感じた。もちろん聞き辛いというのは、音声ではなく、その文体のことである。音楽で言えば、装飾音が過剰でメインの旋律を殺してしまうといった感じだ。具体的にどの場面のどのセリフであるかは指摘できないけど、僕はそういう経験をした。
あんまり言うと「相棒」をけなしているように見えるかもしれないので、一応、弁解しておこう。この種の聞き辛さは僕の好きなマカロニウエスタン作品でもある。作品によってそれが感じられることがあるということであって、「相棒」の脚本が特別に悪いとか、そういう意味ではない。きっと、最終的には好みとかセンスの問題になるのだろう。「相棒」のあの脚本がいいと感じる人たちも大勢おられることだろう。
しかし、もしかすると、脚本家という人間が育たない時代となっているのかもしれない。そう思うこともある。
今日はそんな経験をし、そういうことを考えた。そういう一日だった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)