3月13日:「場」の軽視

3月13日(土):「場」の軽視

 

 IT業者はよくSEO対策ということを言う。僕のこのサイトはあまりそれをしていない。SEO対策するよりも、新しいページを公開していく方がいいと、僕は勝手にそう信じている。

 でも、このたび、SEO対策にも着手することにした。できることはすべてやってから次のことを考えようという思いである。今でもできることがまだまだあるのに、それをやらずに、次のことを始めても同じことになるのではないかという気がしている。万策が尽きてから次のことを始めるべきで、今できることはすべてやってみなければと思う。

 

 仕事に関して一つだけ譲らないことは、僕は決して面接形式を変えないということだ。コロナ禍であっても、感染対策をしながら面接をやっていくつもりだ。リモートなんかではやらない。

 僕はその店の根幹の部分は何があっても変えてはいけないという信念を持っている。ラーメン屋さんが冷麺始めようと、焼き鳥屋さんがテイクアウトの焼き鳥を売ろうと、それは構わないのである。その店の根幹の部分は変わっていないからである。

 しかし、業績が芳しくないからといって、ラーメン屋さんがイタリアンを始めたりするとちょっと違うってなるわけだ。焼き鳥屋さんが店舗の端の方でタピオカを売り出したりするとそれも違うなって思うわけだ。そうなるとそこが何屋さんだかわからなくなる。

 商品だけでなく、形態においてもそうである。立ち飲み屋さんが座り飲みを始めたり、ショットバーがボトルキープ始めたり、あるいはバーが居酒屋メニューを始めたりすると、そのお店の形態が変わってくることになる。

 販売する商品や店の形態が変化すると、客層も変わってくる。店主や店員はその変化に対応できなければならなくなる。

 なんていうのか、表層の部分はバラエティに富ましても、ベースの部分はいじらない方がいいと僕は思うわけだ。

 

 その表層の部分でも、例えばテイクアウトを始めたとしよう。店内飲食とテイクアウトの二本柱でそのお店はやっていくことになる。その時はいいけれど、それをいつまで続けたらいいのかが、これまた問題である。コロナが収束しましたのでテイクアウトを終了しますともなかなか言いづらくなるのではないかと思う。

 急場しのぎで始めたテイクアウトだが、それがいずれ負担にならないとも限らない。そもそもテイクアウトが売れるのは最初のうちだけだと僕は思っている。利用客もやがて飽きるものではないかと思うのだ。

 

 話を本筋に戻そう。僕は面接をする。これは僕の仕事の根幹の部分に当たるから絶対にそこは変えない。

 仮にリモートを始めたとしても、リモートで仕事できるようになるために十分な訓練をしなければならない。一から仕事を覚えるに等しいのである。長距離選手が短距離選手に転向するようなもので、42キロ走れるのだから100メートルくらい走れるはずだという考えは非常に短絡的なのである。それをしようと思えば、一からやっていかなければならないのだ。体を作りかえていかなければならないのだ。

 現に、会社勤めしている会社員にとっては、会社でする仕事も自宅でする仕事も同じものなのである。同じ仕事をしているのに、どうしてあっちではできてこっちではできないということが起きるのか、そんなのおかしいということになってしまう。42キロ走れて、100メートルが走れないなんてどういうこっちゃってなことになるわけだ。そういう理屈を打ち出していることになるわけだ。

 

 僕の言いたいのは、「場」ということがとても大事なのだということだ。

 お店で食べる料理もテイクアウトの料理も同じものであるが、テイクアウトはやがて飽きるだろうというのはそこに「場」が働かないからである。

 会社ではできて、家ではなかなか同じようにできないというのも、「場」の違いのためなのだ。

 面接では、その面接の場でしか得られないこと、その場においてしかできないこともある。同じようにリモートでもそれはあるかもしれないけれど、僕は面接の場の方を重視する。リモートの考えはむしろ場を無視しているものであると僕は考えている。

 その「場」を経験するということが人生には非常に重要なのであるが、それが軽視されていく時代になるのかもしれない。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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