3月12日(月):飲酒欲求と奮闘する
仕事を終えて、喫茶店に入り、これを書いている。今夜は飲酒欲求にひどく襲われている。僕はそれがなぜだか理解できるように感じている。酩酊してすべてを忘却したいのである。もちろん、その忘却は一時的なものであるということは自覚している上でのことだ。たくさんのことに心を奪われ、いろんなことが頭を占め、いくつも厄介な仕事を抱えている。この状態から、たとえ一時的にでも、逃避したい気持ちになっているのだ。
作業は思うようには捗らない。思っていたよりも時間がかかったり、けっこう面倒で疲弊したりで、予定通りにはいかない。それもまた僕のイライラを煽り立てる。今日予定していたことの一部は明日に持ち越されてしまう。明日は明日で予定を組んでいても、どこかで変更せざるを得ない。
こんな日は酒が欲しくなる。僕はどうやってこの飲酒欲求を抑えただろうか。僕は何をしただろうか。そこから何が飲酒欲求に対して効果的だったのかが見えてこないだろうかと思う。
まず、僕は自分の顔、並びに体を鏡に映してみた。職場を後にする前に身なりを確認したのだ。酒飲み時代の丸々と肥えた僕より、今の姿の方が僕は好きだ。もう少し痩せてもいいと思っている。
外に出て、しばらく酒のことで葛藤しながら歩く。100円ショップの前で、ふと清掃用具で買っておこうと思っていた物があるのを思い出した。この機会に買っておこうと思う。買い物をしている間は葛藤から幾分解放されていた。いわばワンクッション置いたようなものだ。
それからコンビニに寄って、父が読む夕刊を買う。表でタバコを喫う。その時、窓ガラスに僕の姿が映る。気がつかなかったが、指も細くなったなと思った。以前よりもいい手をしていると感じた。
コンビニの棚にホワイトデーの品物が並んでいるのを見て、Yさんへのお返しをしなければいけないなと思い出す。呑み屋で一杯飲めばそれだけで500円とか700円とかかかってしまう。酒一杯の値段でそれなりの品がYさんへお返しできるのだなと、漠然と考えた。
再び酒のことが心を占める。駅に向かい、切符を購入する。ここで帰ってもいいのだけど、僕はもう少し自分を拘束する必要を感じていた。それに空腹であることにも気づいた。飲酒欲求と空腹とは相性がいい。もちろん悪い意味での相性であるが。そこで、何か食べようかとも考えた。駅を後にして、しばらく歩く。食べるか、自分を拘束するかで迷う。この迷いは酒を呑むか呑まないかという迷いから置き換えられたものである。
自分を拘束する方を決断する。そうして喫茶店に入っているのである。ここで時間が過ぎれば、呑む方は諦めがつくだろうと考えた。そこで諦めがつくのは、電車の時間があるからである。
喫茶店で本を読んだり、原稿を書いたりして過ごす。頭痛に悩まされて、あまり捗らない。まあ、いい。目的は僕自身を酒から隔離することにあるからだ。
断酒14か月を経て、今15か月目を奮闘中である。元に戻るのは簡単だ。言い換えれば、悪くなるのは思ったほどではないということである。良くなっていくことの方がはるかに困難である。困難だが価値があると僕は信じている。それは飲酒に限らず、「心の病」でも同じことである。「心の病」で留まるのは、一般的に思われているよりも、はるかに容易なことではないかと僕は思っている。より良くなっていこうと目指すことの方が難しいものである。
時刻は夜の10時になろうとしている。ここまでくれば今日は大分安全だと思えてくる。でも、一体、今日の飲酒欲求に対して、何が効果的だったのかは見えずじまいである。試みたことのどれも意味があったのだろう。一つの解答を見出すことの方が非論理的なのかもしれない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)