2月9日(金):書架より~『ストア哲学』(ジャン・ブラン著)
哲学の勉強をする中で、ストア哲学に関する事柄を僕はいくつか読んだことはある。僕はこれが哲学の一つのまとまった体系であるとは思っていなかった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスに継いで現れた流れで、紀元前3世紀から紀元後2世紀の500年間の哲学運動を漠然と指している呼称だと思っていた。どうやら僕の認識を改めなければならないようだ。
この時期の哲学がまとまった一体系の観を呈していないというのは、プラトンやアリストテレスなどと比べて、ストア哲学者によるまとまった著作が少ないためである。残されているのは書物の断片であったりする。そういう断片から学ぶのと、後は他の哲学者による引用で学ぶしかないという一面がストア哲学にはあるためである。
本書はストア哲学に関する研究書であり、入門書でもある。本文は100ページほどのものだが、内容は濃く、ストア哲学に関して、それが深い哲学的思索であることを改めて認識できる一冊である。
短い序説で幕を開き、三つの部で構成されている。第1部はストア学派の哲学者たちとその歴史に触れられている。第2部が本書の主要な部分であるが、ストア哲学の中身に入っていき、4つの章で構成されている。第3部はストア哲学のその後とも言えるもので、パスカルやニーチェなどを引用し、ストア哲学が後世の哲学に残した遺産を考える。
ストア哲学を論じていくにあたって、著者はそれ以前の哲学、主にアリストテレス哲学との比較、あるいは同時代の哲学、例えばエピクロス派、懐疑派、(新)アカデミア派とも比較することで、ストア哲学の輪郭を明確にしようと試みている。その中で、ストア学派が何を問題にし、何を発展させていったかなどが明確になってくる。
僕がストア哲学を好きになれないでいたのは、セネカの著作に代表されるように、どこか処世のための哲学という感じが伴うからだった。それに「ストイック」(ストア的)などという言葉から連想されるように、それが禁欲や克己を推奨している哲学のような印象を持っていたからだ(例えば、マルクス・アウレリウスの著作など)。本書を読むと、ストア哲学にはそのような要素がないわけではないが、それは主に後期ストア哲学に属するものであり、ストア哲学のごく一部分だけが強調されているに過ぎないことが理解できる。
さて、本書の主要部分である第2部から、僕が学んだことをメモしておこう。
まず、論理学としてのストア哲学だ。ストア哲学が目指すのは、自然に従って生きる人間になることである。この哲学は人間と世界の相互浸透の経験主義であり、この世界観はストア学派の弁証論にも影響している。弁証論は、ここでは帰属を含まず、あくまでも事象を言い表すのみであり、諸関係の時間的半立が知恵を規定する。
この論理学は表象、同意と学、さらには弁証論(命題と推論)などの理論を含むものである。
自然学。これは世界、神、人間それぞれに関する学である。神学もここに含まれる。
倫理学。これこそもっともストア学的と言っていい分野だ。最高善と徳。霊魂の病理としての情念。そして賢者になるとはどういうことであるかが考察される。賢者とは理性に従って生きる人のことであり、情念から免れている人であり、自己と自然とに一致した生を送る人である。
情念に関する考え方には、現在の認知療法や論理療法がすでに語られている。エピクテトスの一節を引用(一部変更有)してみよう。「汝を侮辱するものは、彼らについて汝が抱く考え、汝を侮辱していると彼らをみなそうとする汝の考えなのだ。だから、誰かが汝を苛立たせるなら、汝を苛立たせるのはその人間ではなくて、汝の考えなのだと知れ」。僕は認知療法には何ら新しいものを見出さないのである。ギリシャの哲人たちの知恵を復活させた功績しか見出さないのである。
面白い本だった。興味が尽きない一冊であった。ソクラテス以前のタレスに始まるギリシャ哲学はストア学派らの時代を経て、新プラトン派のプロティノスらによってキリスト教に吸収されていく。以後、キリスト教神学が西洋思想の中心となっていく。ストア哲学は、キリスト教神学への橋渡しの時期において、最後のギリシャ哲学らしい哲学であったのかもしれない。
さて、本書の唯我独断的読書評は断然5つ星である。面白いというよりも、一冊でかなり多くのことを学ばせてもらったからである。
<テキスト>
『ストア哲学』(ジャン・ブラン著、1958年)
有田潤 訳 文庫クセジュ(273)白水社
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)