2月9日:Yさんの一言

2月9日(木)Yさんの一言

 

 今週、二日目の徹夜で、今日はいささか参っている。おまけに隣の騒音は相変わらず頭痛の種である。

 昨日はYさんと会って話をした。僕の中では貴重な人である。なぜ、貴重で大切かと言うと、僕と普通に付き合ってくれるからである。それに加えて、僕のことを信用してくれているからである。この、後者は特に大きいポイントである。

 昨日、Yさんと会話している時に、僕が「人から信用されるのは難しいね。信用を落とすのは簡単だけど、信用されるのはもっと難しいね」ということを言った。彼女は「ふーん、そうなん?」と答えたのだ。

 文字にして表すと多くの物が抜け落ちてしまうのだけど、僕は彼女のこの言葉に「ああっ!」と思った。彼女のこの一言から、少なくとも彼女は僕のことを信用しているということを感じ取ったのだ。自分が信用している人の口から「人から信用されるのは難しい」などという言葉を聴いたら、彼女がしたような反応をしてしまうのではないか。僕はそう思う。

 別に科学的な根拠があって言うわけではないが、周囲の人は常に三つのタイプに分かれるものだと思う。その三つはの割合になると思っている。信用ということでも、僕を信用してくれる人、どちらでもない人、僕をまったく信用できない人というふうに分かれるだろう。

 もう少し言えば、どちらでもない人というのは、僕にとってもどちらでもない相手だったりするので、除外して考えてもよくて、信用してくれる人と信用してくれない人に二分しても構わない。

 僕にとっても、そうして周囲の人は二つのタイプに分けられる。一つは僕に学びをもたらし、洞察や発見を与え、僕を育ててくれる人である。つまり、学ぶことができる人たちである。他方はその正反対で、僕は何もその人から学べず、発見も得られず、僕自身の成長・成熟につながらない人である。

 かなり極端な分類だと思う。あまりこの両極端に位置する人と出会うことは少ない。たいていは中間領域で、どちらかと言えばこちら側とかいう感覚である。

 Yさんは、僕にとって、前者である。彼女は独自の生き方をしてきたと僕は捉えている。僕が知らない世界のことにも詳しくて、いろんなことが彼女から学べるのだ。そういう知的な学習だけでなく、彼女の感覚やセンス、感性なども、僕に発見をもたらすことが多いのだ。彼女自身は、自分のそういう所がダメだと捉えている。でも、僕は彼女のそういう所が素晴らしいと捉えている。こういうズレがありながらも、今の所、仲良くやっていけているのは、何とも不思議なことである。

 僕は誰からも好かれようとか、みんなから愛されようとか、気に入られようとか、あるいはモテたいとか、そういう感覚に乏しいようだ。年を重ねるごとに、それらも乏しくなっていったように思う。

 そもそも誰からも愛されようなどと言うのはどだい無理な話である。不可能なことなのだ。一握りの人にだけ、僕は愛され、好きになってもらえて、気に入ってもらえればそれで十分である。人が生まれてから死ぬまでに、自分を本当に愛してくれたという人と三人出会えたとすれば、その人は十分幸福な一生を送ったと、僕は思う。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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