2月5日(日):子は鎹(かすがい)か?
昨日、面接したクライアントが言った。「自分の気持ちに気づかないと、向き合えない」と。クライアントは上手いこと言うなと僕は感心した。本当にその通りだからである。先に自分に気づくということがあって、それからそれに向き合えるものなのだ。その逆はあり得ないと僕は思う。自分でもよく分かっていないのに、向き合っていると感じるのは、それはどこか自分を偽っているのだと思う。なぜなら、自分でもよく分からない対象に、どうやって向き合うことなどできるだろうか。そして、この言葉を聴いた時、僕はこのクライアントはきっと回復していくと信じた。
多くのクライアントは、自分がよく分からない状態で、何かに向き合おうとする。そして、これは追々にして混乱を増し、失敗に終わるやり方である。もちろん、向き合おうとする過程で、自分の気持ちが見えてくるということもある。つまり、同時進行で達成に近づいていくということはあり得る。それでも、片方無くして他方はあり得ない関係であることに変わりはない。
また、そのクライアントは僕に質問してきた。「先生は恋愛と結婚は別だと考えますか」というのがその質問だ。クライアントがなぜその質問をしたのか理由を聞くべきだったかもしれない。それに対する僕の答えは以下の通りである。
僕の考えでは、恋愛と結婚は一緒である。ただ、結婚前と後とでは、さらに子供が産まれる前と後とでは、その恋愛の在り方に違いはあるかもしれないが、基本的に両者は一緒だと僕は考えている。「恋愛と結婚は別だ」と考えている人は、おそらく、よっぽど不幸な結婚生活を送っておられるのだろう。
しかし、それらが「別物」のようになってしまう、もしくは見えてしまうということは生じるものである。日本社会が不景気で、一人一人の従業員に多大な負担がかかっているというような状況で、男性は仕事にすべての時間を吸い取られ、その影で孤独に陥っている主婦たちもたくさんおられるだろう。ここには「恋愛」なんて微塵も見られないのではないかと思う。また、夫婦だけでなく、その親と同居しなければならない人たちもいる。嫁と姑の問題は昔からあるものであるが、恋愛感情で結ばれている二人の間に、第三者が割り込んでくるような状況がここにはあるわけで、この状況ではとても恋愛どころではなくなるだろうと思う。
子供が産まれると、夫婦関係も変わり、恋愛関係も変わっていかざるを得ないだろう。「子は鎹(かすがい)」と昔は言われていたものである。「鎹」というのは、材木と材木を結合するために用いられるホッチキスの刃のような形をした用具で、大工さんが使うものである。子供の誕生が、夫婦のあらたな結びつきを達成するものである。「できてしまった婚」(敢えて「できちゃった婚」とは言わない)に僕が賛成できないのは、夫婦関係の変容が体験できないからである。
夫婦の間に子供が産まれる。その子は「鎹」のような働きを夫婦にもたらす。その子は夫婦を新たに結びつける。材木が先にあって、それをつなぐ必要から「鎹」が求められるのであるが、「できてしまった婚」では、「鎹」が先にあるから材木をつなぎ合わせなくてはならないというような形に僕は見えてしまうのである。
しかしながら、今の日本で、「子は鎹だから」などと言うと笑われるかもしれない。子供はもはや「鎹」の役目を果たさなくなったように僕は思う。僕の兄も先妻と離婚して、娘を「父なし児」にしたのである。親たちの「鎹」になれなかった子供たちがどれだけ存在することだろう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)