2月5日(日):女性友達に捧げる(24)
僕には子供時代の古傷があって、その傷のために、僕は自分が誰からも愛されることのない人間だと信じていた。20代まで、それを信じていた。
この傷はすでに癒えているものと僕は信じていた。しかし、女性友達と交際していると、やたらとこの古傷をいじられるような体験を繰り返したのだ。彼女はもちろん、そういうことを意識してやったのではない。でも、彼女と交際していて、僕が苦しいと感じたのはそこだったと僕は気づいている。
これが不思議なのである。彼女以前にも女性と交際したことはあるのだけれど、他の女性たちとの関係では、この古傷を刺激されるということを僕は体験しなかった。むしろ、僕は自分が好かれているという感じを覚えて、かつての信念が嘘のように思えることが多かった。
なぜ、彼女の場合には、僕はそのように思えず、むしろ昔の古傷が甦り、かつての信念が現実になってしまうのではないだろうかと恐れていたのだろう。彼女は何を僕にもたらしたのだろう。
この感情は「見捨てられ感情」のことである。僕にもかつてはそれが強くあった。女性友達との関係で、それがすごく刺激されるのである。そこで古傷が甦るような感覚を覚えたのだ。彼女と一緒にいる時の方が、僕は孤独だった。そして自分が救いようのない人間のように思われることも度々あった。彼女と一緒に居る時にのみ、僕はそれを体験するのだ。
僕は今では断言できるのであるが、彼女も同じものを抱えていたはずである。僕はそこに感情移入し過ぎていたのだと思う。自分にもかつてあったものだから、よく分かるように体験されていたかもしれない。しかし、ここで変な融合が生じるのだ。彼女の傷を見ているのと同時に僕自身の古傷をも見せつけられてしまっていたのだ。僕はその時、僕と彼女との境界を見失う。僕は彼女を援助しようとした。しかし、彼女を援助したかったのか、自分を救済したかったのか、もはや曖昧である。自我境界を失うことはこれほど苦しいことだったのかと、僕は今さらながら認識している次第である。
彼女と別れて僕がラクになっていったというのは、この古傷が再び癒えていったからだろうとも思う。元々癒えていた傷だったので、それほど回復に困難は感じなかった。実際、彼女と別れて辛いと体験したのは、ほんのわずかの期間だけだった。
彼女は融合感を相手にもたらすのだろうと僕は捉えている。彼女がそういう人だと知っていれば、僕はもっと用心したかもしれない。彼女が融合してきたのか、僕が呑みこまれていったのか、その辺りのことはよく分からない。どちらもあっただろうと思う。交際を始めたその日から、それが生じていたはずである。
交際の途中で、僕は彼女が「フワフワ」し始めたと感じた。この「フワフワ」を理解してもらうのは難しい。僕もうまく表現できなくて困っているのだ。僕は「アメーバ」のようなものを連想している。どんな形にも適合して、それに一体化するような物である。だから彼女が「フワフワ」し始めた時、彼女は自己を更に喪失したのだと僕は思う。確固としたものが彼女から失われたのだと思う。もっとも、彼女の自己がそれほど確固としたものであったとは思わない。やはり脆弱だったと思う。交際の初日から僕にはそれが見えていた。ただ、僕も楽観的だったのか、それは徐々に強化していったらいいと安易に考えてしまっていたのだ。そして、そういう脆弱なものを抱えている彼女が、さらに「フワフワ」し始めたのだ。そこには彼女の体験した「危機」があったはずである。何が彼女をそうしたのか、僕がもう一つどうしても知りたいと思っているのはそこである。彼女はどんな「危機」を体験してしまったのだろう。そこでは僕はどんな役割を果たしてしまったのだろう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)