2月4日(土):「一番寒い日」だったか?
このブログ、昨日は一日休んでしまった。その前夜が徹夜で、疲労感に襲われていたのと、パソコンの画面を見るのが耐えられないほど辛かったためである。だから昨日は一日、パソコンに触らずに過ごした。毎日、こういうことをやっていると、本当に目がやられる感じがする。見ない日も作らないといけないなと思い始めている。
それで、昨日は朝の5時頃帰宅して、3時間ほどごろ寝して、外出した。来週の火曜日に仕事が入ったので、その日に予定していた作業をやっておきたかったのである。
昨日はかなり寒かったようである。今年一番の冷え込みであるとも聞いた。僕自身は、それほど寒いとは思わなかった。確かに寒いことには違いないのだけれど、もっと寒い日を経験したように思った。実際の気温と体験されている事柄とは、しばしば誤差が生じるものである。
事実、客観的な評価と個人的に体験されている事柄との間には、往々にして差があるものである。こういう時、人はどちらを信用するだろうか。昨日は今年一番の冷え込みだったと天気予報で言う。僕はそんなこともないのじゃないかと体験している。きっと、事実は天気予報の言っている方であろう。でも、僕にとっては、それは事実とは思えない。昨日以上に寒い日がもっとあったように体験されており、そちらの方が、僕にとっては重要なことのように思われている。僕の体験していることは、客観的な事実とは違うのであるが、僕にとってはより真実に近いものだと体験されている。この「僕にとっての真実」ということが生きていく上では大切なのだろうと思う。
もちろん、「天気予報がそう言っているのだから、そうなのだろう」と流してもいい。しかし、それは僕の体験した「現実」と異なるものである。そこで、僕はふと立ち止まる。一体、この二つの「現実」に対して、僕はどのように折り合いをつけているのだろうと。僕にとっては「昨日はそれほど寒くなかった」というのが真実である。しかし、客観的な現実は「昨日はこの冬一番の寒さだった」と示している。それが両立されているということに、つまりそのどちらもが正しいということにしなければ、僕はどちらかを「間違っている」ということにしなければならなくなる。僕が「間違っている」とみなすなら、天気予報の言うことが正しくて、僕の体験しているのは幻覚のようなものだということになってしまう。一方、天気予報の方が間違っているとみなすなら、僕は自分が正しくて、世の中が間違っているという妄想を発展させるかもしれない。しかし、これはどちらを採用しても、僕は苦しい体験をすることになるだろうと思う。自分が間違っているとみなして自己不信に陥るか、世の中が間違っているとみなして、自分を弁護し、世間に敵意を抱くかすることになるからだ。
従って、僕はそのどちらもが正しいということがきちんと見えなければならないということになる。どちらも嘘は言っていないからである。片一方だけが真実だと信じてしまうと、先述のような苦境に立たされてしまうのだとすれば、矛盾する両方を見ることができて、尚且つ、矛盾を矛盾のまま見る方がいいということになるようだ。そして、こういうことは案外いろんな場面で、人は自然にやっていることなのかもしれない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)