2月27日:数々の誤謬

2月27日(木):数々の誤謬

 

 クライアントたちは自分なりの見解を有していることが多い。それはそれで構わないことであるけれど、その見解は大した検証をされていないことも案外多い。特に、その見解を有することになった元の体験を度外視していることに気づいていない場合もある。

 

 ところで、なんでもいいんだけれど、例えば「ひきこもり」と「ギャンブル依存」を挙げよう。「子供の引きこもりの問題で」などと親御さんたちは言うのだけれど、「ひきこもり」とは問題を示す名称であろうか。「自分はギャンブル依存なんです」と訴える人もあるが、やはりそれも問題を表わす名称であろうか。

 人によってはそうだという人もあるだろう。僕はそれは問題を表現しているのではないと考えている。つまり、「ひきこもり」と「ギャンブル依存」とは、問題による分類ではなく、現象による分類である。ひきこもりといわれる現象を示している人とギャンブル依存といわれる現象を示している人とがいるわけである。

 もし、問題による分類を試みるなら、ひきこもりを呈している人とギャンブル依存を呈している人とで同じ問題を抱えているという例もみられることだろう。つまり、その問題が、最初の人にはひきこもりという現象として、後の人にはギャンブル依存という現象として顕在化しているに過ぎないということになる。

 一般の人が自分の問題を定義づけるとき、あるいは身近な人の問題を定義づけるときでも、現象と問題を混同してしまうのである。ここで混同してしまうと、その人は問題の本質、何が本当の問題となっているのかを見誤ることになる。

 

 僕はこれを随所で述べるのだけれど、問題を抱えている人は自分の問題に関することをネットなんかで調べたりする。調べているうちに自分にピッタリ当てはまるような記述に遭遇するわけである。そこでその人は自分がその問題の持ち主であることを確信するのである。

 自分は発達障害ですと、ある人が言ったとしよう。なぜ、そう思うのか、発達障害に関する記述が自分にピッタリ該当するからです。では、その記述に出会う以前は自分の問題をどのようなものとして考えていたのか、分かりません。大体、こんな感じである。

 ここで一番問題になるのは、その人が発達障害であるか否かではなく、その人が自分を発達障害であると信じているという点である。この信仰の根拠は、ただ自分に該当する記述だけなのである。言い換えるなら、この記述がこの人を決定しているということになるわけだけれど、これは一体どういう事態であろうか、どういうことがこの人の中で起きているのだろうか。それこそ問われなくてはならない問題である。

 

 多くの人が経験したことのある場面を取り上げよう。これをお読みのあなたは心理テストをやった経験があると思う。これは正規のテストに限らず、巷に氾濫しているようなインチキ臭い心理テストも含めてである。インチキ臭いというのは、妥当性がろくすっぽ検証されておらず、質疑とテストの相関性も統計処理されておらず、ほぼ思い付きだけといったテストである。

 それはさておき、心理テストをするときにどういう経験をしているだろうか。例えば、「親しい間柄であっても、自分の言いたいことが言えない」といった質問項目があるとしよう。あなたはそれを読んで自分の経験をほじくり返すわけだ。そして、そういう場面があったなということであればイエスに、そういう場面が想起されないようであればノーに印をつけるわけだ。

 つまり、その質問はあなたを測定しているのではなく、その質問に適合する場面をあなたから引き出しているのである。従って、イエスかノーかは、そこでその場面が引き出されるか否かで変わるわけである。

 

 自分にピッタリ該当する記述というものがあれば、僕はそれは怪しいと信じている。その記述者がどんな専門家でもやはりそうである。特に心に関する事柄では尚更である。

 臨床像の記述なんてものは、多数の人の記述から抽象されたものである。多数の人に共通して見られるものが集められているだけなのである。従って、そういう記述は個人を表わすものではないのである。

 ある病像の記述が自分にぴったり当てはまるということは、それはその人がその病気であるということを表わしているのではなく、単に、大多数の人と同じであるということを示しているに過ぎない。

 加えて、先の心理テストの例で述べたようなことが起きる。記述を読んで、その記述が自分に該当するのではなく、その記述に該当するような経験を想起してしまっている可能性が高いのである。記述が該当しているのではなく、自らそれに該当させていくのである。

 そして、ここが最終的に問題となるのだけれど、その記述に適合する経験を想起することによって、自分がその記述通りの人間であると信じてしまうことである。その記述に自分を適合させてしまうのである。そこに記述されていることが、自分のすべてであるとでもいわんばかりに、それがその人の自己になるのである。

 さて、ここから次の問題が生まれる。では、記述と自分を同一視して、その記述に自己を適合させてしまうこと、言い換えるなら記述によって自己を限局化させることによって自分が落ち着く人はどういう種類の問題を持っているのかが問われることになる。

 病気の記述が自分に該当するからその病気であるということは本人の主観なのでここでは取り上げないのだけれど、病気の記述が自分にピッタリあてはまるという経験をしてしまうのはどういう「病気」なのか、そこは盲点になってしまうわけだ。

 こうして一部の人たちは誤謬の渦に飛び込んでいくのである。僕はそう考える。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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