2月26日(水):コロナ・ジェノサイド(2)~ジェノサイド
これは対策ではない。これはジェノサイドだ。
何のことか。新型コロナウイルスに関する政府の対策である。その対策は、重症化しない限り医療を受けられないという体制であり、早期発見、軽症治療の観点を初めから欠くものである。
検査すら受けられないという状況が生まれている。検査して、病気が発見されなければ治療できないわけなので、治療の可能性は最初から断たれている。ウイルスに感染しても、僕たちは重症化するまでウイルスを体内で育てなければならないのだ。人によっては命がけの行為となる。それを政府はするようにと求めているわけだ。
そもそも、あのクルーズ船は日本の状況の縮図であった。現在、中国で見られる光景は明日の日本の姿である。感染に対して、ひたすら隔離するしかないわけだ。
その隔離すら不十分である。このウイルスの感染力が強いというのは、その不十分さの理由にはならない。感染力が弱ければガードを甘くしていいというわけでもないだろうに。
ともかく、コロナで死亡する人は増えるだろう。二次的に死亡する人もたくさん現れるだろうと僕は思っている。
二次的というのは、例えば、今日のテレビで報道されていたけれど、コロナ破産が生まれているという。この破産による失業、さらには失業からの自殺の問題だって生まれる可能性があると僕は思う。
政府の対策が後手に回ってしまうのは、パニックを避けるためであるとも聞いたことがある。しかし、それは本末転倒なのである。この状況が明日のパニックを生み出す温床となっているのだ。僕はそう思う。
すでに、罹患しても助けてもらえないということが報道されているわけである。助かるためには他人を押しのけてでも医療にかからなければならなくなる。もし、具合が悪くなったら検査を受けることができ、陽性反応が出ても処置してもらえることが確定しているなら、あるいはそこに信頼がおけるなら、むしろパニックは抑制できると思う。
少し話が飛躍するようだけれど、この対応の背後にあるのは人命蔑視の思想である。僕はそう思う。
森友学園問題でも理事長夫妻だけが罪の判決を受けたのをいつぞや聞いたことがある。別にあの理事長夫妻を庇うつもりもないのだけれど、その問題に関係した他の人たちは不起訴であり、無罪である。確かに理不尽ではある。ここにも人命蔑視の思想に通じるものが僕には見える。
かつて呉秀三先生(だったと思う)が、日本における精神病者の状況を見て、「この人たちがこの病気にかかったことは不幸だ。この人たちがこの国に生まれたことはもっと不幸だ」といった内容のことを言ったことがある。
あれから100年以上を経て、日本人の状況がまったく変わっていないのを僕は感じる。精神分裂病がコロナウイルスに変わっただけで、なんら状況は変わらない。
コロナウイルス感染も検査はできるそうなのだ。民間の検査機関をもっと利用すればいいとテレビでは言っていた。しかし、政府が許可しないのである。
許可すればいいのである。検査機関に人が殺到するということであっても、ハイリスクの人を優先すると最初に明示しておけばいいのである。高齢者、児童、持病持ち、妊婦などを優先したからといって、その他の人も文句は言わないだろう。
そして、仮に、一検査機関において一日1000人の検査が可能であったとしても、800人を上限にしても構わないと僕は思う。緊急の人やハイリスクの人のために多少の枠を開けておくのは妥当なことであると思う。検査機関が手一杯になるのは好ましくないとも思うわけだ。
それでも疑いのある人や不安に思う人たちに検査をやって、早期発見に努める方がいいと僕は思う。病院が満室になってしまうということであれば、ここでも優先順位をつけても構わない。ハイリスクな人、重症の人を優先して入院させてもいいとは思う。
軽症の人は自宅で隔離ということになるのは仕方がない。その人たちにも治療の機会は与えられなければならない。それ以上に、地域の人がその人を差別するようなことをすれば、政府はそれを取り締まればいいのである。政府の要請でその人は自宅療養することになったのだから、その人を差別し、排斥するような近隣住民に対しては、政府がそのケンカを買えばいい。文句や苦情をその人にではなく、政府に言わせるようにすればいいのである。
こういう差別的な行為というものは、この場合、個人とウイルスとの同一視から出るものだ。差別する側の認知が歪んでいるのである。かなり妄想的である。
お互いが回避するのはウイルスであって、お互い同士ではないはずである。
ああ、無意味なことを長々と綴っている。こんなことを綴っている自分にも嫌気がさしている。すでにコロナ不況もコロナ破産も始まっている。感染者の死亡も確認されている。この状況はますますひどくなるだろうし、ウイルスそのものが沈静化されても、生活や経済に及ぼした後遺症は何年も引きずることになるだろう。
政府はこの1,2週間が正念場だという。今後どうなるかの分岐点だと言う。僕はちっとも信用していない。そんな分岐点はとっくに通過しているとさえ思っている。むしろ1,2週間前に正念場は来ていたのだ。ただ、誰もそれに気づいていないのかもしれない。もう手遅れではないのか。誰もそれを口にできない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)