2月22日(月):言葉の不思議~その二方向性
僕たちは日常言葉を用いてコミュニケーションを行う。何気ないお喋りや挨拶も言葉を介している。言葉はたいへん身近なものである。身近であるが故に無頓着になってしまうってこともあるかもしれない。
とかく、言葉というものは不思議なもので、僕はよく疑問にぶつかる。そのいくつかを挙げてみようと思う。
まず、言葉は常に二方向であるという性質を持っていると僕は思う。この二方向というのは自分への方向と相手への方向である。同時に二方向性を持つので、自分に向けて言う言葉が相手に向けて言う言葉となり、相手に向けて言う言葉が自分に向ける言葉になるということである。
例えば亭主関白な夫が妻に「お茶!」と命令する。妻は素知らぬ顔をしている。しぶしぶこの関白失脚亭主は自分でお茶を入れたりする。あたかも妻に向けて発した命令に自分が従っているかのようである。
ジョージ・ミードの言語発生説にはそういう内容を含まれている。他人に要求する反応を自分の内部にも引き起こすことが思考であると言う。まことに深い意味を持つ理論だと思う。
それはさておき、相手へ向けて発した命令に自分が従ってしまうというのはよくあることかもしれない。同じように相手に向けて発した評価が自分に向けられる、あるいは、自分がそのような評価を受ける立場に立ってしまうということもある。
オリンピック委員会の森前会長は何年か前にスケートの浅田真央選手のことを「彼女は肝心なところで転倒する」と評価したことがあった。今、その評価をされるのは森前会長自身となっている。相手へ向けた評価と同じ評価を自分が受ける立場になってしまったように見える。
相手へ向けて発する言語的攻撃はそのまま自分に向けての攻撃となる。同じように、相手を褒めて伸ばしている人は自分を褒めて伸ばしていることにもなる。どちらの例も注意して見ればよく見られる現象ではないかと僕は思っている。
誰か人に注目して言葉を発している人は、自分に注目しているか自分が注目される立場になってしまうかすることもある。あたかも自分に注目するために、注目を自分に集めるために言葉を発しているようなものではないだろうか。
けっこうおもしろいと思うのは、相手の欠点をあげつらっている人は自分の欠点を暴露しているという現象である。ACの子供が親の欠点を攻撃する時、その欠点はその子自身にあるものであったりする。他者への攻撃が自分への攻撃になっているわけだ。
僕はこれを自覚しているけれど、この人は見込みがないと思考する時、それは自分が見込みがないということを意味しているのでもある。相手が見込みがないというだけではなく、相手とやっていく見込みが自分にはないということをも述べていることになる。
言葉は慎重に使いたいものだ。
以上のことを踏まえると、自己暗示はそれなりに意義があるように思える。しかし、自分に向けて発する言葉は肯定的で他人に発する言葉が否定的であるとしたら、せっかくの自己暗示も効果半減するのではないかと思えてくる。
もし、ある人が自分に向けて肯定的な言葉を言い聞かせているとすれば、その人は同じくらい相手に向けても肯定的な言葉を伝えなければならない。自分に向けて発する言葉と相手に向けて発する言葉とが一致している方が良さそうである。
相手に向けての破滅的な言葉は自分をも滅ぼしてしまうことになる。相手に「死ね」などと命令することは、同時にその発話者が自分自身にその命令を発してしまっていることになる。しかも、その人自身が気づかないところでその命令に反応してしまっていることだってあるかもしれない。
ネットやSNSで誹謗中傷する人もいるのだけれど、その誹謗中傷の言葉はそれを発した当人にそのまま跳ね返ってくるかもしれない。あんな奴死ねばいいなどという人は、自分にその願望を伝えているか、あんな奴死ねばいいと言われる立場に自分が立とうとしているのである。そうして自分自身が安住できなくなると、さらに他者を誹謗したりするのかもしれないが、再び、その誹謗はそのままその人に向けてなされているので、その人はさらに安住できなくなる。負のスパイラルにこうして陥っていくように思う。
言葉にはそういう力があると思うから、あまり変なことは自分にも他人にも言わない方がよろしいのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)