2月21日:理性の回復

2月21日(水):理性の回復

 

 今日は水曜日。僕にとっては新しい週の始まりだ。気合を入れて、この一週間を乗り切っていこうと決意する。

 

 決意するなんて言うと大げさと思われるかもしれない。でも、昨日、歩いた時に、体力がかなり落ちているのを実感した。多分、同じだけ気力も落ちているかもしれない。

 体力、気力ともに回復していくこと、それを今の課題にしようと決めた。

 

 今日も比較的予約が入っているけど、空き時間もある。昼休みが取れたのは幸いである。外を歩く時間もできた。

 あまり激しい運動もできないけど、毎日ある程度の時間を歩くことにしよう。これはかつてはやっていたことだが、この一か月くらいはまったく怠っている。風邪を引いたためとか、歯医者に行っていたためとか、あるいは寒いためなどと理由をこじつけてはサボってしまったのだった。その反省も踏まえつつ、毎日の運動もしていこうという気持ちになっている。

 気力の回復は難しい。カウンセリングの勉強を始めた頃のノートを読み返す。これは少し効果的だった。あの頃の情熱が欲しい。少しでも思い出すかもしれないと思い、試みたが、悪くはなかった。

 それにしても、ずいぶん忘れていることもあるなと気づく。かつて頭に叩き込んだことだから、すぐに思い出すことはできたけど、定期的に記憶を新たにしておかないといけないなとも思い始めている。自分の迂闊さ、至らなさばかりが目についてしまう。

 

 金曜日に予約を取られた方のキャンセルがあった。本日最後のクライアントの後、少し席を外している間に電話があって、留守電に吹き込まれていた。

不思議と気にならない。何となくそういう気もしていた。関係を築き、維持していくことより、逃げる方を選ぶだろうなという予感もしていた。しかし、留守電の様子では、その人と関係が切れたわけでもないので、また次に来られることを期待しておこう。

 

 フロイトはこういう言葉を使っているわけではないが、精神分析は理性的である。無意識を意識化するという命題は、人間の理性回復を謳っているわけでもある。

 一方、ロジャースのカウンセリングは、むしろ理性の鎖から人間を解放しようとする部分が感じられる。理性よりも、非理性の領域、例えば感情とか直感とか、そういったものを重視する。

 やはりフロイトである。ロジャースも好きであるが、現代ほど理性が回復されなければならない時代はなかったかもしれない。人間を人間たらしめているものは理性ではないかと思う。動物にそれはない。動物には本能しかないと言い切るのは言い過ぎだろうか。当然、ロボットやコンピューター、AIにもそれはない。理性は人工的に作り出せないものかもしれない。

 理性的であるとは、自分に常に問いかけられる問いに答えることだと僕は定義する。僕が生きていると、常に僕は問われる。特定の誰かに問われるわけではないけど、僕は常に問われる。今それをするべきなのか、本当にそれが正しいと信じていいのか、お前が今まさにやろうとしていることは本当にお前を成長させるのか、そんな問いに僕は常に曝されている。この問いを回避することなく、応答していくことが理性なのだ。

 

 体力、気力、理性、すべてが回復していかないといかんなと今は感じている。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

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