2月20日:「銃撃戦を見る夢」

2月20日(日):「銃撃戦を見る夢」

 

 夢を見たので記録しておこう

 

(夢)「銃撃戦を見る夢」

 映画のようだった。一人の男性主人公が敵と銃で戦うものだった。敵は複数人いたかもしれないけれど、一人であったように思う。僕はそれを観客として見ている。

 最初の場面は敵が食事中に主人公が銃を突き付けていた。ビルのロビーのような場所だった。敵はそれをかわしたのだった。それで敵が逃げたようだ。

 次の場面は、主人公が敵を撃つのであるが、それは鏡に映った敵の姿だった。彼は鏡を撃っただけなのであるが、それによって彼の居場所が敵に知られてしまい、窮地に立たされる。主人公はそこから猛スピードで逃避して助かった。

 最後の場面は、薄暗い倉庫のような場所だった。この部屋に敵がいるらしい。主人公はほふく前進して部屋の中央に向かう。中央は円形の空間になっていて、周囲を荷物が取り囲んでいる。そこに達した時、主人公は片腕を罠にとられてしまう。獣なんかを捕獲する時に使用するような罠だ。そこに敵が来るのだけれど、敵は荷物の周囲をぐるぐる駆け回る。荷物と荷物の隙間から敵の姿が一瞬見える。こっちで見えたかと思うと、反対側の隙間から一瞬見える。主人公は敵を撃とうとするが、敵の動きが速くて撃てない。わずかの隙間に一瞬見える敵を撃とうと、主人公は敵がその隙間を通過する速度を計る。敵が時間的に等間隔で隙間を通過しているので、タイミングを合わせようというわけだ。そして、いざ撃とうとすると、その隙間を通過するはずの敵の姿が見えない。主人公はとっさに反対側に銃を向ける。反対側の隙間から銃でこちらを狙っている敵が見える。主人公は一発撃つと身を翻す。主人公の弾は敵に命中し、敵の放った弾を主人公は間一髪でかわした。これで勝負がついたのだ。

 

 以上が夢だ。

 夢では僕は二人の男が戦う場面を見ていた。上記の他にいくつかの場面があったように思うのだが、覚えていない。僕は観客だったけれど、最後は主人公になっていた。倉庫のシーンは、僕は観客であると同時に、敵の罠につかまりながらも戦う主人公の立場になっていた。

 この二人の戦いであるが、へんな話、映画「007・黄金銃を持つ男」のスカラマンガとボンドの決闘シーンを連想した。僕が初めて観た007映画であり、実は原作も持っているが未読の一冊である。

 

 三つの戦闘シーンがある。最初は絶対確実に敵を倒せる状況なのに主人公がしくじっているのである。主人公に油断があったということか。

 次は敵のトリックに引っかかって主人公が鏡を撃ってしまうシーンだ。よくよく注意すればそれが鏡であることが分かるのに功を焦ってしまったか。やはり主人公の油断ということになろうか。

 最後は敵の罠にかかって動けなくなる。タイミングに合わせて撃とうとするが裏をかかれてしまう。ここにも主人公の読みの浅さというか予測の間違いといった油断があるようだ。しかし、この場面で勝負に決着がつくことになっている。

 最後の場面、方形の部屋の中央にある円形スペースであるが、これは曼荼羅の中心である。ユング派ならそのように見るだろう。曼荼羅の中心とは何かと言えば、自己である。この解釈に従えば、主人公は自己において戦っているということになる。言い換えると、敵は自己の領域に向かって主人公を狙っているということである。

 こんなふうに考えると非常に危機的な夢であったように思う。僕は僕の自己を、あるいは自己の領域を守り通さなければならないのだ。それを成し遂げるためには、油断は禁物であり、思い込みや読みの浅さを回避しなければならない。その上、敵のトリックや罠にも注意せよということになる。

 

 前回の夢では、僕が対峙していたのは自分本位のオバハンであった。あの夢では僕はオバハンに対決するようなことはなかったが、今日の夢では対決が始まっている。

 オバハンには割とはっきりした人格像があったけれど、今回の敵は姿のハッキリしない存在だ。僕は内面で格闘を始めているが、それは人格化されるほど明確化されていないということではないだろうか。

 しかし、このことに関して、僕は一つの仮説を立てている。敵が不明確なのは、それが明確な形を持たないものであるからである、という仮説だ。従って、この夢で敵として現れているものは、未形態の何かではないかということである。それは、例えば、僕の気分であったり情念であったりするかもしれない。僕は僕を打ち負かしにくる気分や情念と戦わなければならないのではないだろうか。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

 

 

 

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