2月16日:何もあてにできず

2月16日(水):コロナ禍を生きる~何もあてにできず

 とかくバタバタと忙しい一日となった。僕の一週間は水曜日から始まるのだけれど、今週の作業工程がまだできていない上に、先週からの持ち越し作業もいくつか抱えている。とにかく次はこれ、その次はこれ、と手当たり次第にこなしていった感じだ。
 身辺整理もしていく。自分を更地にしていく感じだ。身辺整理していくと、過去の自分と出会うという体験もする。それもあって原点回帰したい気持ちに駆られる。

 このコロナ禍にも腹が立つ。経済は全体が上がらないといけないのだ。一部分が落ちると全体がその影響を受けるものだと思う。おまけにこの値上げラッシュだ。
 経済を回したいのなら、検査を拡充してコロナ感染の早期発見、早期治療を目指さなければならない。そうしてまん延を防止しなければならないはずである。そう、本当のまん延防止とはそういうことなのである。飲食店の時短営業なんて見当違いもいいとこである。

 オミクロンは重症化の程度が低いなどと言われているけれど、それは医療体制が十分である場合に言えることであると僕は考えている。それは十分な医療体制の条件の下で言えることなのだ。医療体制が崩壊している状況では当てはまらない説であるかもしれない。
 考えてみれば、普通の風邪でも自力だけで治すとなればけっこうたいへんである。薬も使わず、自己治癒だけでやるわけだ。普通の風邪なら治る確率の方が高いのだけれど、それでもかなり時間を要したり、重症化する可能性も高まるだろうと思う。
 なんであれ、条件が良ければ重症化率が低くなるけれど、条件が悪ければ重症化率が高まるかもしれない。とにかく、オミクロン株は重症化しにくいという認識は捨てたほうがいいかもしれない。

 病床がどれほど逼迫しているかは不明である。政府が公表する数字は当てにならない。中等度2以下は入院させないということであれば、入院できるということは自分が危ない状態であることの証明になってしまうので、よろしくない。これは昨日も書いたことだ。入院は安全・安心につながるより、危険を宣告されることにつながってしまうのだ。 
 自宅療養者が亡くなる。この人たちは入院できなかった人たちである。その人たちは高齢であるとか、持病があるとか言われているけれど、問題の本質はそこではないはずである。入院を拒んだところにあるのだ。そして、それが政府の方針であるのだから、政府の過ちなのだ。
 僕は平素から医者が嫌いである。医師会なんて政治と結びついているのだから強いもんだ。だから政府が決定したことには盲目的に従うのだ。軽症者は自宅療養と指示されているけれど、うちはそういう人の入院を認めますなんてことがなかなかできないのである。情けないくらいに言いなりになっていたりするのだ。
 また、医者の世界は思いっきりタテ社会である。だから上からの指示には必ず従うのである。僕のようなへそ曲がり者は僻地へ出向させられるのがオチである。実際、そういうお医者さんの話を僕は聞いたことがある。
 だから、医者がいくら政府の対応を批判しようとも、結局、彼らは政府の指示通りに動いてしまうのではなかろうかと僕は思う。まあ、個々の医者は悪くないとしよう。ただ、最悪の政府と結びついてしまうと、医療も最悪になるということである。これがタテ社会の弊害である。上が腐ると下も腐ってしまうのである。上が倒れると下も共倒れしてしまうのである。
 医療崩壊は、医療崩壊以前にすでに起きていたのである。
 ともかく、医療もあてにはできない、そう覚悟しておくほうがよさそうである。結局自宅療養になるんだったら、受診する意味もなくなってくる。受診しても見込み診断されるのなら、なんか具合が悪い、熱もある、これはコロナに感染したな、じゃあ自宅で療養しようと、自己診断して自己療養に入るのと同じじゃないか。

 僕の望みはコロナ以前の水準に戻ることなのだ。コロナ以前の水準が良かったというわけでもないのだけれど、せめてそれくらいの水準にまずは回復してほしいと願うのだ。政府や医師を批判するの主ではない。
 現状では、その回復の兆しはまったく見えないし、むしろそれとは正反対の方向に進んでいっているようにしか思えないのである。
 欧米の先進国では、オミクロン株をかなり抑えて、経済活動も再開して、経済が上向いているとも聞く。日本はそれがいつのことになるやら。先進国が一か月でやってのけることを日本では半年かかると思っておくほうがよい。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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