2月13日(月):つくづくイヤになる
午前中は用事があり外出。今日は比較的足の調子がいい。
午後から出勤。午後から夕方まで面接をこなす。まあまあ上手くできたという感じが残っている。
夕方からサイト作業をする。ブログのリンク貼り、2014年を終わらせる。途中、3回ほど電話のため中断する。すべてクライアントからだった。応対する。
その後、本のことに着手するも、どうにも行き詰っている。まず、普段のサイトのように書いてみようとは思うのだが、なかなか上手く行かず。書いていて面白みが感じられないのだ。
行き詰った時は、少し飲みに行く。外の世界を見ることで何か打開策が見つかるもしれないと思うが、あまり成功せず。
いつもの飲み屋に行く。ああ、あの「やかましいおばさん」がいる。今日は日が悪かったなと諦める。
そのおばさんはとにかくよく喋るのである。とかく、人生が上手く行っていない人はお喋りである。ごまかさなければならないことが多すぎるからである。
面倒だ。僕には喋りかけて来ないでと思うのだが、もう、誰かれ構わずである。別に悪い人ではないのだ。ただ、面倒に思うのである。酒飲みは、しばしば、呑みの席が公共の場であることを忘れる。困ったものだ。
その後、帰宅する。どうもスッキリしない一日だった。
人間は人間に関してあまりにも無知だ。僕も自分でそう思う。僕自身や他者に対して、僕は無知である。その僕が見ても、他の人たちが無知に見えてしまうのだ。インターネットやゲームには習熟していても、一番肝心な事柄に無知である。
不登校や出社拒否は「問題」でもなければ「病」でもないのだ。それらは「病」の結果であり、随伴現象なのである。現在、子供がそういう状態になっているということで来談されている親が4人ほどいる。彼らにそこが伝わらないことで僕は悩んでいるわけだ。
不登校にしろ、出社拒否にしろ、それらは行為の段階の話である。存在の次元の話ではないのだ。彼らは学校に行かない、会社に行かないという行為を選択しているのであるが、それらは積極的に選択されているのだ。そうしなければならない存在様式が彼らにあるのだ。
その子供たちは他者と関わらない。同じように、彼らはそうしなければいられないのであって、積極的に関係が回避されているのだ。その子たちの「心を開かせよう」なんて暴力以外の何物でもないのだ。彼らが安心して存在できる、その存在様式こそが彼らにもたらされなければならないのだ。
ああ、こんなことを書いている自分がつくづくイヤになってくる。自明な事柄をいちいち記述しなければならないことが面倒に思われてくる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)