2月11日:生の呼び声

2月11日(木):生の呼び声

 

 今日は祝日か。僕には関係が無い。いつものように高槻に出る。膝から腰にかけての痛みはそれなりに激しい。朝は動けないほどであった。

 鎮痛剤を服用して、それが効き始めてから家を出る。歩行に二倍の時間がかかる。消費する体力も二倍になる。どうにか高槻まで来る。家では杖を突いていたが、外では杖無しで通す。手を空けておきたいからである。それでも、やはり杖を持って出た方が良かったと幾分後悔もあった。

 今日は特にこれといった予定はない。昨日から始めた大掃除をする。体を動かす作業と座ってできることとを交互にやっていく。高い所、と言っても台や椅子の上に乗るだけなんだけれど、それは怖かった。昇降時が特に怖いし、痛い。

 膝を始め、体のあちこちが痛い。コロナに感染しているのではないかと自分でも疑いたくなる。実際、感染していてもおかしくないのだが、どういうわけか熱が上がらない。毎日朝晩二回の検温を二種の体温計を用いてやっているが、37度を超えることもない。

 コロナと言えば、これからますます世の中が悪くなっていくだろう。自殺が増えるのはこれからだと僕は思っているし、僕がその中の一人にならないとも限らない。人間がなぜ自殺をするのか、これは本当は誰も知らないのだ。専門家でさえ知らないのである。

 なぜ自殺するか、これを考えるには、なぜ死を選ばずに僕たちは生きているのかに対して明確な答えを出す方がいいのであるが、生を維持することの反対が自殺とも限らないのである。生きることが生であれば自殺もまた生である。生きることと生命があることとは本当に同一視できることなのだろうか。

 

 人生でやり残していることはないだろうか。最近はこれをよく考える。人間の寿命はその人がやるべきことをやり終えた時に訪れると思っている。彼の中で何かが完遂された時に死が訪れると僕は信じている。それは内的な完遂であり、外的なものではない。作品を最後まで完成させることができなくても、取り掛かっている事業が中途でも、彼の中で何かが完遂すれば死がやってくるのだ。

 もちろん、こういう話は僕の個人的な観念、主観であるので、何か科学的な根拠などがあるというわけではない。死と人生との関係を僕はそのように捉えているというに過ぎないことだ。

 死を迎えることは人間の最後の使命なのだ。最後の使命を遂行する以前に、人生が僕に課していることを遂行しなければならない。それは何かである。人生が課してくるものである。それは社会が課してくるものではない。生そのものから僕に呼び掛けてくるものである。僕はその呼び声に応えているか。

 こんなことを言っていると危ない人間のように思われそうだ。僕には幾分パラノイア的なところがあると自認しているのであるが、決して妄想的な話をしているのではない。いわば一つの比喩なのだ。人生や生きる意味、生きがいに関しての僕なりの思いを比喩的に論じているだけである。

 生とは一つの呼び声である。常に生から呼びかけられている。生きるとはその呼び声に応じていくことなのだ。その呼び声が聞こえないというのであれば、それは人生を不毛にしていることである。あるいはその人自身が混迷しているのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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