12月29日:「亡」

12月29日(水):「亡」

 

 今年一年を表す漢字は「金」ということになっている。僕の中では「亡」の一年だった。

 この「亡」は、まず「死亡」の意味がある。続いて「失う」という意味も含めている。

 

 今年は僕の周りで誰かが亡くなったという話をよく聞いたように思う。身内にも一人亡くなった人がいたし、管理人さんの家族にもおられる。クライアントさんの身内で亡くなられた方も2,3人おられた。あと、直接面識があるわけではないけれど、友達のその友達の方が亡くなったという話も聞いたな。まだ若い人で、ワクチン接種後に亡くなったそうだ。

 人が亡くなったという話を聞くと、次は僕の番だなと、不安半分期待半分の気持ちで待ち受ける。幸か不幸か、僕は死なず、他の人が亡くなる。死ぬのが僕であってもよかったはずなのに、という思いが込み上げてくる。

 僕自身は死は怖くない。ただ無駄死にだけはしたくないと思うし、怖いのは死に方にある。痛い、熱い、苦しいとかいうのを避けたい。静かに死ねたら最高である。

 そして、できれば孤独死を。僕は孤独死を悪いことだとは思わない。むしろ人間本来の死に方ではないかとも思う。人は独りで生まれ、独りで死ぬものだ。どれだけ多くの人に看取られたとしても、死ぬときは独りである。もっとも、多くの人に囲まれていたら死ぬに死ねないような気もしてくる。

 死を恐れる人もある。確かに不安を喚起することだろう。それでも、死に対する恐怖は処罰恐怖を根底に抱えていると僕は考えている。つまり、罪の意識が死を恐れさせるのだ。だから正しく生きている人は死を恐れないものだ。僕もそれを目指している。

 

 ともかく、僕の周りでも亡くなった人の話を聞く。加えて、多くの事件もあった。電車内で殺傷するのもおれば、クリニックに放火するのもおる。そのたびに犠牲者が現れ、亡くなる人が現れる。

 それにコロナによる死亡者もおられる。デルタ株が流行した頃は死者数も増えていた。これからオミクロンがどうなるかは不安ではある。それで亡くなる人がどれだけ現れるだろうかとも思う。

 

 「亡」には失う、喪失の意味も込めていると述べた。コロナ禍でどれだけの人が職を失っただろう。本来なら普通に学生生活を送るはずだったのに、それを失った大学生も多いだろう。従来の生活を失い、また人生設計を失った人がどれほどおられるだろうか。

 高槻にも閉店・廃業した商店がたくさんある。すぐ次のテナントさんが入ったりするのであまり目立たないかもしれないけれど。

 むしろ京都はよく目立つ。シャッター下ろした店舗をいくつも見かける。コロナがなければお店も普通に続けることができたかもしれないのに、さぞ無念なことだろうと思う。

 

 コロナよりも政策だ。他の先進国はもっと給付とかを出しているのだ。日本は細かい制限を加えるのでおかしいことになるのだ。協力している飲食店だけとか、18歳未満の未成年だけとか、そうして対象を制限すると却って不公平感を生み出すものだと思う。一律10万円とかの方がよっぽど公平であると思う。

 まあ、日本も金が無いのだろう。一応先進国のフリをしているけれど、実質途上国並みの経済である。五輪なんか開催できる国ではないのだ。アベノミクスも失敗しているのだ。五輪やアベノマスクに税金を投入するくらいなら、まだバラマキの方がマシである。困窮者がそれで助かるのだから。

 そのうち日本という国も「亡」になるのじゃないか。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

 

 

 

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