12月27日(水):唯我独断的読書評~『西国の伊達男』
ジョン・M・シングの戯曲。
短い期間だが、僕は戯曲に凝った時期がある。カウンセリングをやるとなると、どうしてもコミュニケーションに興味を持つことになる。戯曲は、ある意味では、それだけで成り立っている文学だ。個々のやり取りを読み解けばコミュニケーション理解力が高まるだろうなどと期待して、戯曲に手を出したというわけだ。
本書はその時期に購入したものだ。岩波文庫の復刻版で、古い日本語なので非常に読みにくい。コミュニケーション研究どころか、普通に読むのさえ億劫になってくる。
そうして億劫がった結果、今日まで未読のまま残されたわけだ。せっかく買ったのに未読とは勿体ない。本は読まれるためにある。処分してしまう前に一読だけしておこうと思い、読みにくいなあなどとぼやきながら読む。
全体は3幕から成る。各幕の大まかな流れだけ記しておこう。正しく読めているかどうか定かではないが、大筋だけでも理解できたらそれで良しとしておこう。
第1幕
マイケル・ジェームズの酒場。一人娘のペギーンが留守番をしている。婚約者のショーン登場。ペギーンは彼との結婚を望んでいない。ショーンはここへ来る道中で倒れている男を見かけたという。
マイケルと土地の農夫二人登場。今晩のお通夜へ行くかどうか話している。ショーンは夜道を一人歩くのが怖いのか、帰って寝るという。ショーンの小心さが窺われる。
そこにクリスティ登場。ショーンが見かけた男である。彼は警察を恐れている上に、十日以上も歩いてきたという。彼は一体何をしたのか。なかなか話そうとしない。みんなからの質問責めにあって、ようやく、彼は自分の父親を鍬で叩き殺したことを告白する。一同はその勇敢さに瞠目する。
ペギーンはクリスティをバーテンとして雇おうと提案する。彼はここに泊まることになる。男たちは退場する。ボディガードを申し出たショーンもペギーンに追い出される。
その後、後家のクィン登場。クリスティとはいい話し相手になれるからと、クリスティを誘い出しに来たのだ。クリスティはそれを断り、後家クィンを追い返す。
一人になったクリスティ。今日の成果はまずまずとほくそ笑む。
第2幕
その翌朝。ペギーンの酒場で一夜をすごしたクリスティ。見違えるほど元気になっている。朝から村の娘たちが、父親をぶち殺したという勇敢な男を一目見るために駆け寄ってくる。クリスティ、繰り返し話した父親殺しの顛末を話す。だんだん話がエスカレートしている。後家のクィンも加わる。
そこにペギーンが戻ってきて、娘たちを追い返す。
ショーンが来る。ペギーンを外に出す。そしてクリスティにはアメリカへの片道切符を渡そうとする。しかし、クリスティはここを出ていくつもりはない。ショーン、競馬道のことで退場。
後家のクィンとクリスティ。そこへ、殺されたはずのクリスティの父親である老マホーン登場。クリスティはとっさに身を隠す。老マホーンは鍬で頭を殴った息子を追って十日も歩いてきたという。息子を見かけなかったかと後家クィンに尋ねると、その人なら海岸のほうへ向かったとウソをつく。
真相を知った後家クィン、クリスティと約束し、共謀することになる。そこへ娘たちが競争の準備ができたことを知らせに来た。
第3幕
同日の午後。1幕で登場した農夫たち。クリスティの活躍ぶりを噂している。そこに老マローンが戻ってきて、彼らが噂している人物のことを尋ねる。酒場から見ると、競馬で馬を飛ばしているのは紛れもなく息子のクリスティだ。そこに後家クィンが入ってきて、老マローンの方が頭を打たれて気がふれているということにする。
やがて、群衆から囃し立てられながら、競馬その他の競技での優勝商品を携えて、クリスティが戻る。ペギーンはクリスティとの結婚を承諾する。
そこに老マローンが再び登場。クリスティのウソがばれる。本当は父親をぶんなぐって、怖気づいて逃げてきただけのことである。騙されていたことに気づいた群衆はクリスティを追い出そうとし、ペギーンも結婚の話を無効にするが、クリスティは断固として動かず、ペギーンとの結婚の意志を変えない。老マローンは再び殴打され、群衆はクリスティに飛び掛かり、乱闘騒ぎとなる。
結局、クリスティは老マローンとともにこの場を去る。その後、ペギーンは気づく。自分は本当の伊達男を失ったのだと。
さて、おおまかな筋は以上の通りである。これはどう解釈したらいいか、いろいろと見解が分かれそうだ。
僕の読後の感想はこういうものだ。クリスティは自分が伊達男だとホラを吹き、人々はそのホラを信じた。最後はそのホラが現実になるというわけで、ドン・キホーテ的な喜劇と言える。でも、喜劇というにはいささか残酷な場面もある。父親を二度にわたって叩きのめしたり、群衆がクリスティをリンチするような場面は喜劇とはいささか言い難い。ただ、クリスティが一人前の伊達男になっていくストーリーと考えると、こうした乱闘場面が必要になると思う。というのは、男が一人前の男になるためには、親殺し(もちろん象徴的にだ)の過程、異性との関わり、そして時には全員を敵に回してでも貫徹する激しい姿勢が要されることもある。つまり、僕は本書をクリスティの成長ないしは変容の物語として読んだ次第である。
クリスティと対照的なのがショーンだ。彼は戦うことも、自分の意志を貫徹することにも及び腰になっていて、小心で肝っ玉も小さい人物である。彼は伊達男になることができないのだ。言い換えれば、彼は変容することがないのである。
あと、これは不思議な感覚で、最初はクリスティのホラだった。次にそのホラを人々が信じた。この両者が協働してそれを実現していったかのようである。意図せず協力して成し遂げたといった印象を僕は受けている。
そうしてウソが現実となり、それまで現実であったものまでが姿を変えてしまったかのようだ。
さて、あとがきによると、アイルランドの方言をふんだんに使用した原文はかなりリズムがいいようである。セリフのやりとりもすんなり耳に入るのだろう。日本語訳ではその辺りが伝わらない。その上、その日本語が古めかしいとなると尚更原文の良さというものが分からない。
ちゃんと読めたかどうか自信はないけど、それなりに面白く読んだ。いい作品だと思う。僕の唯我独断的評価は4つ星だ。日本語の訳文が古臭くなくて、もっと読みやすかったらよかったのにと思う。
<テキスト>
『西国の伊達男』(The Playboy of the Western World)J・Mシング著(1907年)
山本修二訳 岩波文庫
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)