12月25日(日):右と左~靴はどちらから履きますか
実は、僕は左利きなのである。字を書くのだけは右に矯正されたのだが、それ以外のほとんどは左手でする。しかし、これも中途半端で、右利きの兄のお古を使った物に関しては、右利きなのである。ボールは右で投げる。ギターも、最初はやりにくなと感じながら、右利きで馴染んでしまった。そういうものを除けば、すべて左利きである。
初めてテニスをした時は、テニスラケットをどっちの手で持ったらいいのかで、初めの内はすごく悩んだ。こういうのが困るのである。
右手でするべきか、左手でするべきかというのは、僕にとってはけっこう大きな問題である。左手でするのは、箸を持つこと、鋏やカッターなどの文具類、工具類等々である。マスターベーションも左手でする。爪は右手から切る、と言うのは、左手を最初に使うからである。靴は左足から履いてしまう。
この靴ということであるが、今日、うっかり右足から履いてしまった。最初の数歩だけ違和感があったが、それ以後は気にならない。強迫的な人はこういうのが気になるのだろうなと、ふと思った。
神経が交叉して、右利きの人は左脳が、左利きの人は右脳が発達しているそうな。右利きの人は論理的で、左利きの人は芸術的であるそうな。そんなの僕は迷信だと思っている。でも、こういう迷信のようなものをすごく信じている人もおられる。
あるクライアントは、自分は左利きで、右脳が発達しているから、芸術家肌なのだと思うと述べられたことがある。誰がそんなことを決めたのですかと私は尋ねました。学問的にそう言われているというのが彼の返答でしたが、学問的にはそうだというだけのことで、それ以上のことをその「学問」は何も語っていないようである。「左利きは芸術家」というのは一つの仮説であり、その仮説に自分を当てはめる必要は何もないのである。はっきり言う。芸術家の多くは右利きである。どっちが利き手であるかで、人間のタイプが決まるわけではないものである。
ある人が芸術家なのは、彼が左利きだったからではなく、彼が芸術に親しみ、芸術的感性を磨いてきたからである。僕は単純にそう考えている。
僕は左利きである。右利きの人は論理的で知的なのだそうだ。しかし、左利きの僕が、このサイトの至る所で「屁理屈」をこねているのであるから、この区別も怪しいものだ。僕は、一応、自分の書いたものは「芸術品」であると勝手に決めているのであるが、恐らく、誰もそのようには見てくれていないだろうとは思う。
さて、あなたは靴をどちらの足から履きますか。たまには反対の足から履いてみてはいかがなものだろう。何か発見があるかもしれない。変化や気づきというものは、案外そういう所から導き出されるものかもしれないと、僕は思うのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)