12月19日(土):不登校児の刀づくり
今日、2か月ぶりに来談されたクライアントの面接をした。夫婦の問題で来談されていた夫人なのだけれど、僕の中ではこの夫婦はこのままいくだろうなと思っていた。今回、予約があったので、何か問題でも勃発したのかと危惧していたけれど、僕の思い過ごしであった。彼女はその後の報告を兼ねて来られたのだった。
結局、人間の問題というものは完全には払拭されないものなので、あらゆる心理療法は中途で終わることになる。僕はそれでいいと思っている。ある程度クライアントの中で進展するものがあればそれでいいのだ。臨床家が完全主義的になると治療は決して終了しなくなってしまう。
さて、僕の中では、彼女たち夫婦よりも、彼女たちの子供のことが気がかりであった。最後に話を伺った時にはこの子は不登校の真っ最中だった。その後、どうなったのかが気になってはいた。今日、その子の話も伺うことができたのは大きな収穫であった。この子はいい環境に身を置くことができている。
この子は、今は学校に行っているのだけれど、教室には入れず、別室で過ごしているそうである。別室でこの子は何をやっているかと言うと、ひたすら刀を作っているとのこと。母親も一緒になって作るのだという。いいことだと思う。
刀というのは、この子の好きな「鬼滅の刃」の影響なんだろうけれど、刀を作るということは、この子は「武器」を求めてるということなのではないかと思う。「武器」といっても攻撃のためのものではなく、それが象徴している強さとかのことを指している。この子はそれを自ら作り、それを身につけて遊ぶ。
この子は不安の強い子供であるが、この子が不安なのではなく、不安な子供がいるのである。刀を身につける時、この子はもはや不安な子供ではなくなっているのだ。僕はそう思う。そして、毎日趣向を凝らして刀づくりに励んでいる。いつまでこれを続けるのかと言うと、それはこの子が刀を必要としなくなるまでである。いつそれが来るかということは誰にも分からないし、その日時を予測することも決定することも、この子にとってはいい迷惑になるだろう。この子の心に任せるしかないのだ。
作った刀はどうするのか。この子はそれを友達にあげるそうである。一緒に遊んだりするのかどうかは定かではないんだけれど、作った刀は友達に分け与えるのだそうだ。これを自尊心の芽生えと考える人もあるだろうと思う。確かにそれは正しいかもしれないんだけれど、ここにこの子の社会性を見ることも必要である。
この子は一生懸命作った刀を友達にあげる。彼は友達に自慢しているのだろうか、そういう側面もあるかもしれない。でも、「僕と友達になるといいことがあるよ」と彼は訴えているのかもしれない。僕はそう理解したい。それは彼の社会性の発達を示しているものだと言える。
確かこの社会性はまだまだ未熟な社会性ではある。それでも、未熟なものであれ、このような社会性が発達しているということは、この子の中で他者が存在し始めていることを意味している。彼の活動は「自閉的」であるかもしれないが、彼自身は決して「自閉的」な人間ではないのだ。ここはよくよく注意しておかなければならないところだ。
もし、彼の社会性がより成熟すれば、彼は身なりも気にするようになるだろう。母親と一緒にいることよりも、友達と一緒にいることをより望むようになるだろう。それでいいのだ。
母親、つまりクライアントである夫人のことであるが、彼女はこの子が何か好きなものを一つでも見つけてほしいと願っている。僕は彼女に反対するつもりもないんだけれど、それは中学生くらいになってからでもいいと思っている。小学生くらいの子供はいろんなことを好きになる方が良いと思う。一つに絞らなくても構わないことだと思う。むしろ子供はそれができないものだと思っておく方が好ましいことであるかもしれない。子どもはいろんなことに興味を持ち、いろんなことを好きになるものだと思う。
あと、子供の発達検査のことにも言及しておこう。発達検査はそれ自体精度の高いものであるけれど、その結果をあまり一義的に信用する必要もない。どんな子供も成長していくものなので、人生の一時点に出した結果を頑なに信奉することはないのである。それはあくまでも検査実施時における結果に過ぎない。
それに、検査では検査場面そのものが与える影響も見過ごしてはならない。不安の強い子であれば、検査状況それ自体が不安を喚起することもあるだろうし、強い不安を持ったまま検査を受けた子と不安なしに検査を受けた子とでは結果に差異が生まれることは自然なことである。
この子の検査結果の一つに視覚野の狭窄がある。これも視覚機能に障害がないのであれば、不安による自我狭窄と考えてよさそうである。不安が強いために全体を見ることができず、細部にこだわってしまうわけだ。あるいは、不安のために一つ一つ細心に確認してからでないと次に進めないという風に考えてもよさそうである。黒板の文字をざっと読むのではなく、その文字を読んだということを何度も確認しなければ次の文字を読むことができないということも起きるわけだ。
まあ、あまり言わないでおこう、人のことは細部に渡って綴ることを控えよう。この子の不安は母親譲りである。母親の不安が軽減することがカウンセリングの目標でもあったけれど、彼女は今はかつてほど不安な女性ではなくなっている。きっと子供にもそのことが伝わるだろうことを僕は期待している。
まあ、何はともあれ、彼女にはこれからもこの子の刀づくりに協力してあげてほしいものである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)