12月17日(木):夫婦別姓を巡って
女難の相でも出ておるのか、昨日と今日の二日間、クライアントはすべて女性だった。それはそれでいいのである。一人のキャンセルや変更もなく、予約していた人はみんな来てくれた。ありがたいことである。
昨日の新規のクライアントには継続を勧めてみたが、どうやら怪しい感じがしている。彼女の抵抗感が激しいようだからである。この抵抗感は彼女の自我が弱体化していることでもたらされているものであるように思う。何よりも、僕は敢えて指摘しなかったのだけれど、彼女の中には矛盾があるのだ。彼女はまったくそれに気づいていないようだ。もちろん、いつかはそれを取り上げて話し合うことになるだろうけれど、この矛盾に触れることは彼女の不安を高めてしまいそうに思ったので、少し遠慮したのだ。今の彼女の状況で、あまり不安が高まると、ますます適応が難しくなるだろうと思う。適応を支持する方向で援助した方が良いと、そう考えている。
今日のクライアントとは、夫婦別姓について話し合ったことが印象に残っている。僕は夫婦別姓にはやや反対なのだ。どちらの名字を採択するかということに関しては、多少自由度があってもいいかもしれないとは思うけれど、夫婦が別々の名字のままでいるのは、あまり賛成できない。
こういう問題が出てくるのは、結婚から深い意味が失われてしまったからだろうと思う。結婚するということは再生なのだ。「死と再生」を象徴的に行うことなのだ。女性の方にこれの意味合いが強いとはいえ、男性もやはり象徴的にそれを行うものなのだ。
女性は、例えば、花嫁衣裳にそれが現れている。花嫁衣裳というのは経帷子、つまり死装束に基づいているのだそうだ。女性は、花嫁になることで、そこで一旦死を迎えるということだ。それまでの彼女はここで死にました、そして新しい女性として生まれ変わりますという意味があるのだ。名字が変わるのは「再生」を意味しているわけである。
一方、男性の方はと言うと、こういうはっきりとした象徴性は乏しいかもしれないが、やはりそれまでの彼とは違った存在として見做されるようになる。そして、世代交代がここではっきりなされる。主は隠居して、彼が主になるわけだ。
結婚から「死と再生」の象徴性が失われ(ある意味では結婚が安易に成り下がりすぎていると僕は感じているのだが)、結婚を機に「生まれ変わる」という観念がないのだ。結婚する子供にもそれがなければ、親の側にもそれが無いのだ。そして、あくまでも個人的な見解だけれど、夫婦別姓に賛成している人たちは、この「生まれ変わり」を恐れているのだと思う。過去のすべてを失ってでも「生まれ変わる」という覚悟ができないのだと、そんな風に思うこともある。
今日の新規のクライアントは、AC(アダルトチルドレン)と関連する問題を持ち込んできた。僕のサイトを見て、よく来てくれたと思う。あまりACに関してはいいことを述べていないからである。
僕はACの理論を否定するつもりはない。親も人間なので、欠点もあれば、間違ったこともしてしまう。どの親もそうなのだ。親は完全ではないのだ(それを認めることは本当に難しいことだと思う)。そのために子供が怒りを抱えているとしよう。僕はその怒りも否定しようとは思わない。怒りを抱えるだけの理由がその子にあるからだ。しかし、怒りを抱えているからと言って、親を好き勝手に扱っていいということにはならない。そこが問題なのである。つまり、怒りを抱えるまでは許せるのだが、その怒りの表出や扱いが適切なものではないということなのである。どうしてこのような子は「毒になる子」(「毒になる親」は頻繁に言われているのに)と呼ばれないのだろうと、僕はそう思うこともある。
まあ、何はともあれ、この二日間、無事の終わったことに感謝しよう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)