12月15日(木):女性友達に捧げる(9)
女性友達と交際していると、僕は自分がとても悪いことをしているような気分に襲われることが度々あった。あたかも加害者のような感覚に陥るのである。誓って言うのであるが、僕は彼女を殴ったりはしなかった。暴力は振るわなかった。しかし、そうしてまでこちらの言い分を伝えたいくらいの気持ちに襲われることはあった。最後の方では、僕は彼女の方ではなく、彼女に暴力を振るった方に共感できるような思いに陥った。
はっきりと「これ」と言えるようなものはないのである。しかし、彼女の言動はチクチクと僕の神経を逆なでして、怒りを駆り立てるのである。僕がそれで怒りを表明すると、「何を怒っているの」と素知らぬ顔をされ、蔑視される。怒りを駆り立てておいて、その怒りはまともではない、あなたがおかしいと言われているようなものである。それで、僕は自分がとても不安定な境地に追い込まれていくのを感じた。
一方では彼女のことがとても好きで、愛している。しかし、他方では、彼女によって引き裂かれる。愛している感情の方は彼女を許そうとする。しかし、引き裂かれた方は彼女を抑え込みたくなっている。つまり、彼女を自分の支配下におかないと、自分がますます分裂させられてしまうという苦痛に苛まれるのである。いつしか、僕は彼女に対して、許容的ではなくなっていった。この感情はとても微妙で、例えば「許してやるから一発殴らせろ」というような要求を生み出す。許すことが目的ではあるが、ただでは許すことができない、殴ってでもこちらの言い分を染み込ませたいという感覚が強まるのである。
不思議なもので、交際していても、彼女の中で僕が浸透していっているように思えないのである。生きた人間を相手にしているのではないかのような感覚に僕は陥ることもあった。何か得体の知れないものが僕たちの間にあると、僕には感じられていた。僕が一つ思い当たるのは、彼女は一方では僕をすごく拒絶していたということである。もう少し言えば、彼女が自身の欲求を満たしてもらえている場において、僕は存在が認知されているような感じだった。それ以外の時というのは、僕は彼女にとって無名の個人なのだったと思う。僕は、こうして自分のアイデンティティが剥奪されていくような虚無感に襲われる。この苦しさは、まず、彼女には伝わらないものである。
彼女は自分が暴力の被害者であると信じているが、もし、彼女が加害者の痛みに触れることができていれば、少なくとも暴力は防ぐことができたはずだと、僕は今では考えるようになった。彼女から痛みを受け取ってしまい、それでいて痛みを感じているということが彼女には分かってもらえない。この痛みをどうやって彼女に理解してもらおうかということになる。言葉では伝わらない。彼女は無邪気なほど、自分の善を信じている。存在の場が揺さぶられるような体験を男はしている。男はこれを何とかして食い止めなければならない。と言うのは、これ以上の揺さぶりには耐えられない上に、自己喪失につながるからである。この時、暴力が生まれるのだと僕は思う。しかし、彼女は当然のことながら、彼が暴力を振るう必然性があったというようには理解できない。そこで彼女は何をしたかと言うと、彼は「人格障害」なのだということにするのである。「人格障害」の権利のために明言しておくのであるが、「人格障害」は必ずしも暴力的な人を意味するわけではなく、仮に暴力を振るうことがあっても、しばしばその暴力は理解することができるものである。つまり、彼女は偏見を持ち出しているのである。こうして、人格障害だから彼は暴力を振るうのであって、私には何も問題がないという構図になってしまうのである。わたしは被害者で、彼は人格障害であるが故にわたしに暴力を振るうということになり、問題があるのは彼の方だという理論を展開することになる。この理論こそまさに「人格障害」特有のスプリッティングなのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)