12月14日:買ってはいけない4
与えることが愛情だと僕は信じてきた。今でもそれは信じている。それもただ与えるだけでなく、無償の贈与でなければいけないと思っている。できることなら、相手が本当に望んでいるもの、相手の心が熱望しているものを与えることができればいいなとは思う。でも、あんまり話を広げすぎないでおこう。後で収拾がつかなくなってしまいそうに思うから。
反対給付を目論んで与えるのは、それは商売であり、愛ではないと、僕は信じている。商売は商売でいい。でも、それは愛情とはまた違った話だと僕は考えている。
僕は人に与えることができるようなものを何か持っているだろうか。小銭を募金箱に入れるというのも、確かに与えることであり、愛情表現かもしれない。でも、そういうことではなく、僕個人の中にあるもの、僕が所有しているもので与えることができる何かがあるだろうか。それをこのサイトやブログを通してできないだろうか。
いろいろ苦心して考えた結果、僕は僕が体験した事柄、内面にある事柄を与えていこうと決めた。その一つの形がこのブログであり、僕のサイトに書かれている事柄なのだ。もちろん、欲しくないという人には押し付けない。仮に読んでくれた人がいたとして、その人が「こんなもの何の価値もない」と判断されたとしても、それは構わない。何かを受け取るかどうかはその人の自由だ。与えられたものを受容するも、拒絶するのも、受け取る側にその自由と権利があると僕は考えている。それに、読み手の一人一人に対して、その人が必要としているものを与えるなんていうことは、僕にはとてもできない話だ。
だから、僕の書いたものを読んで、「ああ、よく分かる」とか「なるほど、そうだったのか」と、読んだ人に資するものが何か得てもらえるなら、それで本望なのだ。僕はその人と僕の何かを共有したことになる。僕としてはそれだけで嬉しい。
僕のサイトなりブログなりを読んでくれている人が、まあ、ありがたいことではあるけれど、いろいろ言ってくれる。大抵は「よくあれだけ書くことがありますね」と呆れかえられるか、「すごいですね」と尊敬のまなざしを向けられるか、「何か記録を樹立しようと企んでいるのですか」などと揶揄されるかだ。誰一人として、「あなたはそこまでして人に何かを与えたいと望んでいるのですね」と共感的理解を示してくれない。誰も言ってくれないから自分で公表しているという、いささか惨めな話である。
僕は無償で書く。これで生計を立てているわけではないから、無料で読んでくれて構わない。そして、僕は書くことで、僕が与えることのできる人間だということを自分自身にも証明したい。つまり、僕が愛することのできる人間なのだということを、こういう形であれ、示したいと願っているわけなのだ。
そうして、愛情表現のつもりで書いてきたものを商品化しようと企んでいる人たちが現れたわけである。商品にするのなら、それとは別に作りたいというのが僕の気持ちである。これはあくまでも無償で与えようという僕の気持ちの表現であるという点をいじりたくないのだ。
嗚呼、数週間後にはそれが商品になっているのだろうな。これまで読んでくれてきた人を裏切ってしまっているような、そんな気分に襲われる。だから、せめてもの罪滅ぼしとして、電子書籍の不買運動をしていこうと思う。皆さん、どうか買わないように。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)