12月10日:断酒11か月

12月10日(土)断酒11か月

 

 今年の1月10日から始めた断酒が、これで11か月続いたことになる。先日、母に「酒は飲んでないで」と伝えた所、「あんた、よう続いてるな」と言われた。母は僕の飲酒を見てきたから、そういう言葉が出るのだろうと思う。

 この断酒は、そもそも酒を呑むのが嫌になり、欲しくなくなったというところから端を発したのであり、自分のための断酒であり、女性友達のための断酒でもあった。彼女と別れて、僕は昔の酒呑みに戻ってしまうのではと心配した時期があった。でも、彼女と別れても、そうはならないと決意している。今の所、その決意が続いている。

 先週、居酒屋の雰囲気が懐かしく思えて、ふらりと入った。その時でも、酒は呑まなかった。アルコール飲料よりも、ソフトドリンクの方が値段が高いというのは驚きであったが、それでも尚、僕はコーラとジンジャーエールで焼き鳥を食したのだ。それで、どうだったかと言うと、けっこう満足している自分を発見した。不思議に聞こえるかもしれないが、酒を呑んでいる方が不満足を経験していたように僕は改めて感じた。

 そのことがあって、僕はますます確信したのである。酒は満足をもたらさないと。酒は何かを満たしてくれるような、そういう魅力を感じていたけれど、僕はそれがすべて幻想だったということが分かっている。これを分かるのに20年近く要したというのは、我ながら情けない話である。

 もちろん、成人の飲酒そのものは違法でも何でもない。呑みたい人は呑んでも構わないと僕は思っている。しかし、飲酒は常に自己放棄を伴うものだと僕は捉えている。酒を呑んで上機嫌になる人もいるけれど、その上機嫌は酒の力に依るものであって、造られたものである。居丈高になる人もあるけれど、それも同じである。そして、人工的にそういう状態を作り出さなければならない人たちなのだろうと僕は信じている。今の僕はそういうものをまるで必要としない。自己を放棄するよりも、自己を保持することの方が、よっぽど価値のある行為だと僕は信じているからである。

 女性友達の周りの人たちというのは、やはり酒を呑む人が多いという印象が僕にはある。呑まないという人は、単に飲めないだけである。彼女もやはり飲めない、つまりアルコールに弱いから呑まずにきたに過ぎない。僕が、究極的に彼らに怒りを感じないのは、まさにこの一点に尽きるのである。彼らは酒を必要とする。でも、僕は酒を必要としない。彼らの段階を僕は既に卒業している。勝敗を付けるとすれば、僕の方が勝者なのである。勝者が敗者に怒りを感じることほど、理に合わないことはないのである。この勝敗は僕にはとても意味がある。

 もし、資産で勝負すれば、僕は彼らに負けるだろう。しかし、資産、並びにその人の所有物で勝負することは、たいへん脆い勝負となるはずである。持っている人はいついかなる形で失うとも限らないし、得ていない人は今後どのような形であれ得ていく可能性がある。僕が同じ物を所有すれば、それだけで彼らと肩を並べることになるのだ。これで勝ったとしても僕は何一つ幸福ではない。

 酒を呑むか呑まないかは、自己を放棄するかしないかの勝負でもあり、これは持つか持たないかの勝敗ではなく、僕と彼らの在り方、存在様式の差異を示すものである。彼らが何らかの形で僕を貶めたとしても、それでも僕の方が、存在様式としては、一段上の段階に位置していることが実感できるのである。だから、苦しくもなんともないのである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

関連記事

PAGE TOP