12月1日(水):コロナ禍を生きる~実証主義
新たなコロナウイルスの変異株であるオミクロン株もいずれ蔓延するようになるだろう。その時には僕はどうなっていることだろうか。そんな思いも込めて、久しぶりにコロナネタを展開しよう。
よくエビデンスに基いた対策を取れなどと政府が批判される。このエビデンスなるものは、意味としては「証拠」ということなのだけれど、実証主義の考えに裏打ちされていると思う。実証されていることに基づいた対策を立てろというわけだ。
実証主義は、あらゆる主義が完璧ではないのと同じように、それ自体の欠点もある。この欠点をしっかり認識しておかなければならない。実証主義が実証するのはすべて過去の事象である。将来の予測に携わらないのである。
過去一年間にこういうことが起きたということが実証された。では次の一年はどうなるか、一年後にはどうなっているかと問われると、実証主義では「一年後になってみないと分からない」と答えるしかなくなる。将来のことは実証できないからである。
将来の予測というものは、実証された事柄に基づくとしても、もはや実証主義の範疇ではなくなる。そこでは他の主義に取って代わる。将来の予測であれ対策であれ、三種くらいを認めることができると僕は思っていて、それぞれ絶対主義、相対主義、機能主義と呼んでおこう。ちなみに、これらの名称は、意味は違っているけれど、三木清先生の評論から借用している。
さて、一つの架空の場面を想定しよう。僕がある場所にドライバーやハンマーなどの工具を保管していたとしよう。一年前はそれらは新品であったのに、今や錆びまくっているとしよう。その保管場所の湿度が高いために、工具の金属部分が結露して、そこから錆が発生したとしよう。このことは実証されているとしよう。では、この状況に対してどんな対策を立てるといいか。もう一つの条件として、他に保管場所となる場所がないとしよう。そこだけしか保管場所がないということにしよう。
絶対主義では、そこに保管する限り絶対に錆びるという観点から始める。従って、一年ごとに工具を新調するという方法を取らなければならなくなる。そこでは必ず一年で工具が錆びて使い物にならなくなるから、毎年新しく買い替えようという対策が講じられたりするわけだ。A(湿度が高い)があるとB(錆びる)が生じるという関係を絶対視して、そこには何も手を付けないわけだ。
相対主義では、AやBに加工を加えて相対的に下げるとか遅らせるとかいう対策になる。湿度が高い環境であれば、乾燥剤なんかを設置して湿度を下げることを試みたり、工具の方に防錆の油を塗るなどしたりするのである。それによって、一年でオシャカになる工具が三年もつということが可能になるわけだ。それらの処置を施すことによって、相対的に結果を遅らせたり、結果を下げたりすることになるわけである。このような対策は相対主義とよんでよかろうと思う。
機能主義というのは、AまたはBに直接手を加えてその「機能」を変えてしまうという考えである。その保管場所が湿度が高いのであれば、その場所に通風孔などを新たに作って風通しを良くするとか、工具を錆びない材質のものに代えるなどである。
これは相対主義と似ているけれど、相対主義はAとBはそのままで、そこに加工を加えるというものであった。だからその場所は湿度の高いままであるし、工具は錆びやすい材質のままである。機能主義は、湿度の高い環境そのものを変えるわけである。相対主義においては、錆びやすい工具はそのままであったが、機能主義では錆びない材質の工具に代えてしまうわけである。
以上を簡潔に述べると、絶対主義では全部を変えるしかなくなり、相対主義は属性や性質に加工を施すことであり、機能主義は属性や性質の機能を変えてしまうということである。
さて、以上を踏まえて、コロナ対策を考えてみよう。僕が思うに、大半は相対主義によるものである。
マスク着用、三密回避、ソーシャルディスタンスなどは、それを実行することによって相対的に感染率を下げるということである。人やウイルスの性質とか機能を変えるわけではないので機能主義ではないということになる。
それらが相対主義による対策であるために、そこに絶対主義を持ち込んでしまうと、少しばかりややこしいことになる。例えば、マスクを着用しても感染する人は感染するのだからマスクなんて意味がないと主張することは、相対主義の対策に絶対主義の思想を持ち込んでいるのである。人と人が接すると感染するという実証を絶対視していることになるのだが、そうではなく、マスク着用しても感染するかもしれないが、相対的に感染率を下げようとしているのである。
マスク着用、三密回避、人との距離というのもそうであるし、時短営業もそうである。結局、ガセネタのようなものであったが、うがい薬が効果的というのも相対主義なのである。それらをすると相対的にリスクが下がるという種類の対策なのである。
ワクチン接種は機能主義であった。僕が思うにそれだけが機能主義的対策だった。だからワクチン接種に期待していたところもあった。これは人間に接種して、その人の機能を変える試みである。抗体の強い身体に変える試みであり、身体の機能を変える試みとみなしていいのではないかと思う。
ただ、オミクロン株のおかげで、ワクチン接種も相対主義に陥りつつある傾向を感じるのだが、それはさておくとして、ワクチン接種は機能主義的な対策であるので、やはり絶対主義を持ち込むとややこしくなる。ガースー首相はそういう考えが濃厚であったように僕には見える。機能を変えることで結果を変える試みであるのだが、接種をすればすべて片が付くと言わんばかりの勢いだったように思う。
その他、医薬品の開発も機能主義的な対策と言えると思う。ウイルスの属性あるいはその機能を変える試みとみなすことができるからである。
絶対主義は、それが必要な場面もある。例えば水際対策である。感染拡大地域から入国する人は徹底して隔離されなければならない。これを、検査が陰性だからとか接種を済ましているからということで相対主義を持ち込んではいけないのである。その他、日本ではなかったけれど、ロックダウンなんかも絶対主義で対策しなければならないのである。こういう人は相対的にリスクが低いから除外しようという対策を許してはいけないのである。絶対主義的な対策で行われなければならない対策というものもあると思う。
どんな対策であれ、それが絶対主義に基づいているのか、相対主義的な対策なのか、機能主義的な対策であるのか、分けて考えた方がいいかもしれないと僕は思う。
絶対主義というのは決定論とか運命論に近づいてしまう。相対主義は、どちらかと言えば応急処置的なニュアンスが強い。完全な解決ではないけれど、相対的にリスクを下げるという試みでしかないわけである。機能主義は、ある意味では真の科学的方法であると僕は考えていて、これは根本的な解決を目指すものである。ただし、機能主義的な対策は一般の人には手出しできないものであり、その道の専門家に頼らなければならないものである。僕たちが個人でできるものは相対的な対策だけである。
最後に、実証主義は過去に生じた事象についてしか実証できないのであり、将来の予測とは別であるということをもう一度押さえておこう。
過去にこういうことが起きて、それによってこういう問題が発生した、これを実証することはできる。この実証されたデータに基づいて将来の対策を立てることになるのだけれど、そこはもう実証主義の扱う領域ではなくなっているのである。今後、その問題が発生するかどうかは実証されていないのだけれど、それを前提に対策を立てることになる。
悪しき実証主義は、問題が新たに発生して、それを実証して、それから対策を立てようと動き始めることである。例えば、過去においてこういう場所(場所X)でクラスターが発生したことが実証されており、そのエビデンスに基づいて場所Yでもクラスターが発生する可能性があるとしよう。しかし現時点において、場所Yでのクラスターは確認されていないとしよう。そうして場所Yで本当にクラスターが発生してから(つまり場所Yでの問題発生が実証されてから)、場所Yに対する対策を立てましょうと動き始めるということである。
この悪しき実証主義においては、一切の予測が排除されているのであり、もっとも非科学的思考であるように僕には思えるのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)