11月30日(水):ながら動作
このブログに書くネタに困っているわけではないけれど、ネタを探しに町に出ている。今、29日(火)の午後二時。昨日分のブログに続けて書いている。相変わらず、カフェに居座っている。
隣の席には、入れ替わり別の女性客が座っている。食事をしながら、ケータイを見ている。ケータイに夢中になっていて、食が進んでいないようだ。最近はこういう姿を見かけることが多くなったように思う。「ながら動作」が増えたように思う。大抵はケータイである。ケータイを見たり、あるいは会話したりしながら、食事をしたり、自転車を運転したり、マンガ本を読んだり、そういった人を見ることが珍しくなくなったなと僕は感じている。
「ながら動作」は、多くの場合、時間の損失を生み出すものだと、僕は自分の経験からそう信じている。一方を終えてから他方に取り掛かる方が、早く終わるものである。そして、大抵の場合、どっちつかずになることが多いようである。それは一つに集中できないからである。
なぜ、二つのこと(時には二つ以上のこと)を同時にやりたがるのか、僕は不思議である。そんなに時間に追われているのだろうか。しかし、考えてみると、僕もそれをしてしまうなと思い当たるのである。
昨日(28日)、仕事を終えて、梅田まで、特に用もないのだけれど、ぶらりと出てみる。古本屋に入る。そこで掘り出し物を発見し、衝動買いしてしまった。それはメルロ・ポンティの「知覚の現象学」Ⅰ、Ⅱ巻で、二冊合わせて二千円だった。カバーは少々色褪せているが、中身は線引き一つなく、きれいなものであった。僕は前々から読みたいと思っていたのだが、なかなか手が出せなかった。これが二冊揃いで二千円というのは、僕の感覚では、ものすごく安いのである。
これがまた親切な本で、原本の章分けとは別に、訳者が各節ごとに分けてくれているのである。目次には各節の見出しを載せ、巻末には各節ごとに、その節でどのようなことが書いてあるかを概略してくれているのである。ここまで親切な哲学書とはそうそう出会わないものである。
それで昨夜からそれを読み始めている。食事の時も本を開き、風呂に入る時も持ち込んで読み、トイレでも読むというありさまである。歩いている時にも読んだりするし、信号待ちでは必ず読んでいる。よく考えると、今日の僕のしていることはすべて「ながら動作」である。
僕の本読みは「病気」である。そうだとすれば、「ながら動作」も「病気」ということになる。というのは、僕の「活字中毒」は常に僕に「ながら動作」を強いるからである。だとすれば、隣の女性はもしかすると「ケータイ中毒」に罹っているのかもしれない。
僕の場合、本を読みながら何かをするのか、何かをしながら本を読むのか不明瞭である。ただ、若干、前者のような感じもする。これを書きながらも、僕の頭の中では、このブログをさっさと仕上げて、「知覚の現象学」に没頭したいという欲求が渦巻いている。これを「心の病」と言う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)