11月30日:「空耳アワー」 

11月30日(木):「空耳アワー」 

 

 今日、夕方の時間帯にキャンセルがあった。時間が空いたのをいいことに、パソコンをインターネットに接続し、ユーチューブで少しばかり「空耳アワー」を見る。これはタモリさんの「タモリ倶楽部」のワンコーナーにあるものだ。 

 先日のことだった。行きつけの飲み屋の人が「空耳アワー」の話をしていた。それがきっかけで見てみることにしたのだ。 

 僕もその番組やコーナーは知っていた。あまり面白いとは思わないので、長いこと見ていない。今でも続いているそうで、驚きである。 

 そんなわけで、今回、「空耳アワー」を見てみる。アカン。いくつかのネタでは笑ってしまった。 

 

 僕の知っている曲もあった。ビートルズもあった。「I want to hold your hand」が「アホな放尿犯」になっていた。絶対にそうは聞こえんと思うのだが、まあ、よう「アホな放尿犯」の画を撮ったなとは思う。 

「Ask me why」のサビの部分が「おでんにも水割り」ってのは、少しだけそう聞こえた。 

他の曲も、確かにそう聞こえるものもあれば、まったくそうは聞こえないというものまでさまざまだった。 

 

 しかし、あれは「空耳」でも何でもないという気もしている。外国語の曲を聴きながら、日本語のテロップを読んでしまっているだけという気もする。日本語を読んでいるので、音声が日本語に引きずられてしまうのだと思う。実際、目をつむって聴いてみると、日本語には聞こえないというネタもあった。 

 そうして視覚情報に影響されるのと同時に、馴染みのない外国語を馴染みのある日本語に変容してしまうということも起きているかもしれない。僕たちは馴染みのないものを馴染みのあるものにすり替えてしまうということをしてしまうのだ。 

 今のことは心理学の実験でもある。被験者に絵を見せる。その後で、どんな絵だったかを思い出してもらい、再現させるのである。提示された絵は内容のはっきりしない図柄だったのに、再現された絵は我々に馴染みのある図柄になっているというものだ。 

 

「空耳アワー」の経験が僕に教えてくれることは、いかに我々は耳にしたものを正確に聴いていないかということである。視覚情報に左右されたり、馴染みのあるものに変容したりして、いかに耳に届いた音声を歪めてしまうかということである。これは僕の日頃の信念を裏書きしてくれているようにも思った。 

 

 最近、どうして面接を録音するのか、他所ではそんなことをしないのにと苦言を呈したクライアントがおられた。きっと、他所さんのカウンセラーは録音などしなくてもいいだけの、完璧な耳をお持ちなのだろう。視覚情報に決して左右されることなく、馴染みのある観念に変容させることなく、耳に届いた音声を完璧にそのまま聴くことのできる、そういう人間離れした能力をお持ちなのだろう。そういう人にあっては、空耳アワーを見ても絶対に面白くないと感じることだろう。 

 生憎、僕はそういう耳を持っていない。だから録音しないといけないのだ。耳は僕を裏切るからだ。常に間違いなく完璧に正しく音声を聴けているなんていう保証はどこにもないからだ。クライアントは録音されることが気に食わなくとも、僕はそれをしないといけないのだ。僕は僕の耳を完全には信用していないからである。録音されるのがイヤだというのであれば、完璧な耳をお持ちのカウンセラーの所に行けばいいだけのことである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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