11月3日(日):世間話
僕のクライアントたちの中には人付き合いが不得手だっていう人も多い。不得手とか苦手っていうのは、それ自体、心的投影だと僕は思うのだけれど、そのことはまあ置いておくとしよう。
この人たちが特に苦手とするのが「世間話」の場面であることも少なくない。中には会議などで報告することは苦でもないのに、世間話になるとてんでダメだっていう人もある。
その人の人格的要因はここでは取り上げないことにしよう。そこに踏み込むと大量の文章を打ち込まなければならなくなる。
彼らに共通することは、世間話の時に、何かを言おうとし過ぎるのである。自分が何を言うかっていうことばかり考えているわけで、これは要するに、自分しか見ていないということになる。言い換えれば自意識過剰ってことになるんだろうけれど、自分が不確かになっているので意識が自己に過剰集中してしまうのだろうと思う。
でも、会話ってのは全員が発言する必要はまったくないのである。三人いるとしよう。この三人がいっせいに発言すれば、それは会話でもなんでもなく、銘々がただ騒音をまき散らしているだけに等しい。会話には発言しない人間の存在が不可欠である。話し手と聞き手とが、その都度、役割を交代しながら、会話は進んでいくものである。
では、三人にうち二人だけが活発に話していて、一人がまったく無言であるとしよう。この一人は会話に参加していないっていうことになるだろうか。もしかすると、この一人は他の二人の会話を促進する役目を知らず知らずのうちに果たしているかもしれない。この一人の存在が他の二人にまったく影響しないとは僕には思えないのである。つまり、この無言の参加者は会話に参加しているのである。参加の仕方が他の二人とは幾分異なっているだけなのである。
ところが、クライアントたちは決してそう考えない。何も発言しないこと、聞き手に徹することは、会話への非参加であると考えてしまうようだ。
会話の話題がないということで悩む人もある。何かレパートリーとか得意分野を持つっていうことはそれなりに助けとなるかもしれない。
僕の知人で、かつてスナックのマスターをやっていた人がいた。その人はお客さんとの会話のために、毎日数種の新聞を読み、何冊もの週刊誌に目を通していたのを思い出す。彼は職業柄それが必要であるだけで、そうでない人はそこまでする必要はまったくないのである。
大部分の人はこのマスターのようなことはしていないものだ。会話のために材料を仕入れておくということは、営業の人であれば多少ともそういうことはするかもしれないけど、大半の人はそうした準備なく会話に入っていくのである。
クライアントたちのもう一つの誤りは、自分の知っていることだけを世間話の話題にしようとし過ぎるのである。自分がそれについて知っていないと話題に挙げてはいけないなどと思い込んでいるのである。
しかしながら、世間話っていうものは、自分の知らないことの方が話題に挙げやすい。僕はスポーツや芸能のことはまったく分からない。だからこそというべきか、そういう話題の方が挙げやすい。
ラグビーどうなったのとか、今年の阪神はどんな感じですかとか、そんなことを訊けばいいのだ。AKBってどんな子がいるのとか、誰が人気なのとか、ベビーメタルの良さってどことか、そんなことを訊けばいいのである。
僕がまったく無知だから相手の言うことが素直に聞けるっていう部分もあるようだ。なまじ知識があると、相手と意見の対立とか招くかもしれない。
あと、自分が無口な人間であるということを周囲に認知してもらうのも手である。あまり会話に参加したがらない人間だっていうふうに認識してもらえれば、平気で黙っていられる。実は、これは僕がいつも使う手である。
会話に参加しろなんて強制されても、僕は打てば響く人間なので打たれない限り音を発しないのですなどと、僕のよく使うへそ曲がりの弁明をしてもOKである。
発言しなくても、その場にいるということ自体、すでに何らかの参加をしているのである。
しかし、クライアントたちにとっては、それではダメだってことになっているのだ。と言うのは、普通の人は普通に会話できている(ここにクライアントの心的投影があるわけだ)のに、自分はできないからダメなんだって考えてしまうようだ。要するに、異常意識に囚われ始めるってことなんだけれど、この異常意識が過剰に自己に注意を集中する結果を招くようだ。
あと、本人の動機付けなんかもある。本当に人と会話を楽しみたいと欲しているのか、ただ他の人ができていることは自分にもできなければならないと欲しているだけなのか、そんな違いも影響すると思う。
会話して人と親しくなりたいのか、それとも、自分の存在をただ主張したいだけなのか。会話の場や相手に興味を持っているのか、それとも自分にだけ興味があるのか。相手と何か共有したいと欲しているのか、それとも自分はこれこれのことができるという自己確認だけをしたいのか。その人の目的や欲求によっても違いが生まれるだろう。
しばしば、他愛のない世間話の場が、自分自身を試される試練の場であるかのように彼らは経験する。自分の存在価値を問われているような、そんな思いを経験するようである。ホントは何でもないような場面なのにね。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)