11月3日(木):カエルの問題
先日、10月31日のことだったが、それは帰宅途中の電車の中でのことである。僕が座席に座っていると、小学生の低学年くらいの女の子が二人電車に乗ってきて、僕の隣に座った。塾か何かの帰りのようだった。
彼女たちはお喋りをしていたが、途中で次のような問題を一人が相手に投げかけた。「カエルがいます。ピョン、ピョン、ピョン、ピョン跳ねています。それを数えます。一匹、二匹、三匹、四匹、五匹。さてカエルは何匹いたでしょう?」
僕はその質問を聞いて「???」という感じであった。一匹、二匹と数えているのに、何匹いるのでしょうと質問されても、僕には質問の意味がよく分からなかった。質問を受けた方の子も同じような反応で、彼女はもう一回同じ質問を繰り返した。質問文を二回聞くと、僕はこの問題が何となく理解できるように思った。質問された子は、二回目も同じように、よく分からないという反応だった。
電車が停まって、僕はそこで降りなければならなかった。だから彼女の答えを聞くことはできなかったのだけど、恐らく、この質問文は次のように解釈しなければならないのだと思う。この質問文は、文章で書くとよく分からないのである。音声として聞かないといけないのである。彼女はカエルを数える時に、一匹(いっぴき)、二匹(にひき)、三匹(さんびき)、四匹(よんひき)、五匹(ごひき)と数えて、その上で何匹(なんひき)いたでしょうと尋ねているのである。このうち、「ひき」と数えるのは二匹、四匹、五匹であった。だから答えは「ひき」と数えるのが出た回数ということで三匹か、もしくは二匹と四匹と五匹とで合わせて十一匹であるかのどちらかであろうと思う。
このエピソードを僕は失錯行為のページで取り上げようと思っていた。と言うのは、言い間違いなどで、音の類似ということがしばしば出てくるからである。ある言葉を言おうとして、その言葉と類似の言葉が代わりに出てしまうというようなことが生じるのである。カエルの問題の彼女たちにとっては、一匹(いっぴき)と二匹(にひき)と三匹(さんびき)とでは、同一のものではないという感覚があるのだろうと思う。二匹と四匹と五匹は同じグループのもので、一匹と三匹はそれに属していないという見方ができるのだと思う。その違いは何かと言われれば、すべてその音声に依るものである。概念の同一性よりも音声の同一性や差異ということを彼女たちは見ているのであり、音声の違いによってグループ分けをしているのである。僕たちもまた彼女たちの時代を経験しているはずなのである。音声の類似に特別な意味合いがあるのだと思う。ただ、僕たちは大人になると、そういう考え方をしていたことを忘れているだけなのかもしれない。
ああ、しかし、このエピソードは使うことができないのである。なぜなら、彼女たちの答えがどういうものであるかを僕は聞き損ねたからである。こんなことなら、電車を乗り過ごしてでも、彼女たちの答えを聞いておくべきだった。僕の考えたものとはまったく違う答えであったかもしれないからである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(再録に際して)
こんなこともあったなあと思い出す。子供は天才であり、優れた哲学者だと思う。誰もがそうだったのではないかと思う。大人になっていく途中で、いつの間にか、僕たちは才能を失い、哲学を失くしてしまったのだなと思う。(平成25年11月)