11月26日:抜毛

11月26日(木):抜毛

 

 今日来られたクライアントさんの娘さんが一時期ひどく抜毛をやっていたそうだ。毛を抜いてしまうという人はけっこう多いように思う。僕は、あまりそれを特別なこととは考えず、強迫の一環に含めている。それが強迫の一環であるなら、強迫症の心理と通じるものがあると仮定してよさそうである。従って、そこにはいわゆる「置き換え」の心理が働いているということになるから、それが何の置き換えであるかを考えていけばいいということになる。

 よく、なぜ毛を抜いてしまうのかと問われることがある。クライアントからもあるし、問い合わせしてきた人からもある。僕は明確に答えないようにしている。と言うのは、いくつもの理由があるからだ。

 今日はそれを4つくらいしたためておこう。

 

①母親との関係

 女性の場合、髪の毛は母親と結びつくことが多いと僕は思っている。娘が手のかからない年齢になっても(つまり小学生くらいになっても)、母は娘の髪を結ってくれたりする。髪は母親と結びつく部位だと思う。

 一人、これの顕著な人がいた。というよりも、この人はいい意味で分かりやすかった。母親(同棲していた)との間で何か良くないことがあると抜毛が激しくなるのだ。だから彼女が今回はたくさん抜いてしまいましたと報告する時、僕の方でこれは母親と何かあったなと分かってしまうのだ。そして、大抵の場合、その予測が的中したものだった。

 髪を抜くとは、この場合、母親を遠ざけたい気持ちの表現ということになる。それもかなり激しく遠のけたいわけだ。穏やかにそれができないでいることが窺われるのだ。

 

②自慢の部位

 抜毛する女性において、髪の毛がその人の自慢であったという例もある。髪がきれいだったり、これは自慢になるのかどうかわからないけれど、量が多くてボリュームがあったりとかしていたわけだ。この女性にとって髪に特別な意味が付与されることになる。

 その自慢の部分を棄損することになるので、これはかなり激しい自己棄損になると僕は思っている。自分をある意味では特徴づけていた部分、自分の自慢の部分であり、自分を支えてくれていた部分を敢えて破壊するということになるからだ。

 とは言え、僕は自己棄損とはそういうものだと信じている。その人にとってもっとも重要であったり、価値があったり、自慢のものであり心的にその人を支えてきた部分に攻撃を加えるものだと思っている。

 

③永生の拒否

 永生などと言っても何のことだと思われそうだ。要するに寿命のことであり、死後の存在のことである。髪の毛は最後まで残るのだ。だから故人の遺髪を保存する風習もあるのだと思う。その人が死んでも、髪の毛は残すことができるわけだ。

 そういう意味においては、自殺に近い意味になってしまう。後々まで残るものを先に棄損してしまうわけであるからだ。自分の存在を消してしまいたいという気もちと紙一重という気がしている。

 

④厄介払い

 これはもっとも理解しやすいかと思う。髪の毛というものは、人によって体験しているものが違うとは思うのだけれど、勝手に伸びていく。寝癖をつけないようにして寝ても寝癖がついてしまう。定期的に散髪にも行かないといけないし、ヘアスタイルを毎日整えなければならない。キレイに染めても長続きはしない。人によっては、育毛や増毛をせざるを得なくなり、白髪染めなんかも定期的にやらないといけなくなってくる。要するに、髪の毛に関しては個人はコントロールできないわけだ。たくさんの手間暇をかけなければならなくなる代物なのだ。

 この厄介者を追い払いたいという心理であるわけだ。コントロール下に置けないものを排除する心理なのだ。①とよく似ているかもしれないけれど、①は対象が母親であり、抜毛するのは女性であることが多い。④は対象や性別を問わない。

 僕も髪の毛のことであれこれ手を焼くくらいなら、いっそのことスキンヘッドにしてやろうかと思うこともある。それくらい厄介なものだと僕は思う。

 この厄介者にはもう一つある。それは爪である。このように考えていけば、抜毛と爪を剥がす行為とは相通じるものがあるということになる。それは同じ心理であるかもしれない。

 そして、この種のパターンでは対象を支配する意味合いが濃くなる。その対象は自分のコントロール下に置くことができず、むしろ対象が主体を動かしていく。その力関係を逆転させる試みとして理解することができるだろう。つまり、自分が対象のコントロール下に置かれるのではなく、対象を自分のコントロール下に置く試みである。その試みがかなりアグレッシブな形を取っていることになる。自己を棄損してまでもそれに対して抵抗を試みていることになるからである。

 

 さて、長々と綴ったけれど、当然、この4種のパターンに限定されるとは限らないわけである。他にもさまざなことが考えられそうである。それに、個人差というか個人的な相違もかなりあるだろうと思う。大切なことは、何事も一般化しないことである。一般的にこう言われているということをそのまま個人に当てはめたりしないことである。一人一人個別に考えていかなければならない問題であるということは言うまでもないことだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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