11月1日(月):若者の投票行動
今日のブログは書いたけれど、もう一本書いておこう。
今日、父が入院した。検査して、今日の内に手術をすることになっていた。コロナ禍なので立ち会う必要はなかったけれど、何かあったら連絡が入るはずだ。母を独りで残しているので、それも気が気でない。今日は早退することにした。
帰宅すると、母の報告では手術は問題なく終わったとのことだった。この後、経過観察していくそうである。手術が無事に終了したのであれば良しである。
後は夕食を済ませて、しばらくは母と過ごす。特に会話もない。テレビがずっとついている。僕は見るともなしに見ていた。ニュース・情報番組だった。
その中で温暖化のことを取り上げていた。
温暖化でなくても自然災害は発生するだろうけれど、それでも災害の規模が大きくなったとか、頻度が多くなったという印象を受けるし、この地域ではこの種の災害は今まで見られなかったのにといったケースもある。やはり温暖化の影響を考えなければならないのだろう。
「温暖化のおかげで北海道の米が美味くなった」などとトンマなことを言っている政治家は死んだらええのにと思ってしまう。国際感覚と大いにズレまくっているというだけでなく、思考が普通以下である。温暖化による被害に喘いでいる人たちもいるってのに。
その後(いや、その前だったかな)、選挙のことを取り上げていた。若者の投票行動である。若者たちにインタビューしていて、なかなか興味深かった。そのいくつかを取り上げてみよう。
ある若者は選挙会場まで行くのが億劫だといった考えを述べていた。スマフォで簡単に投票できたらいいのにというご意見である。
選挙には公正さが求められる。投票に行くと、会場には監視する人たちがいる。不正を働かないか、怪しい動きをしないかなどと監視されるのである。ただ、この監視は投票会場に入ってから出るまでの間のことである。不愉快かもしれないけれど、そうする必要があるから彼らはそうしているのであるし、わずかの時間だからこっちも我慢できる。
これをネットでやるとすれば、つまりスマフォで投票できるようになるとすれば、個々人のスマフォが監視されることになる。少なくとも投票日は終日監視されることになる。そんなことになりそうだと僕は思うのだ。先述の若者に訊きたいのだけれど、そうなってもいいのかね、それでもネット投票の方が便利だと思うのかね、と。
また、別の若者は特に生活に困っているわけでもないから、今のままでいいんじゃね、という理屈を述べておられた。
この若者を見て思うのは(別にこの人を非難するわけではない)、それは基本的な欲求が満たされているから問題はないという風に聞こえてしまうのだ。衣食住に関する基本的な部分が満たされているというだけのことであるように思うのだ。もっと高次な欲求が人間にはあるのだけれど、そういう高次の欲求を満たすことのできる社会であるかどうかということが問題になるのである。この人を見ていると、本当にその高次の欲求を満たしている人のようには思えなかったのである。
自分の一票で変わるはずがないといった見解の若者もいた。そういう見解はよく耳にするのだけれど、よく考えてみよう。
僕は思う。自分の一票で大きく変わったなんてことになった方がその人にとってプレッシャーになるのではないか。その人のその一票で負けたという側から、その人は大いに恨まれてしまうことになるのだけれど、それでもいいのだろうか。
3人で多数決をするという場合、一人の個人が有する影響力があまりにも大きい。一人の負担があまりにも大きいというわけだ。これが30万人で投票して決めるということであれば、一人一人の負担がそれだけ軽減されることになる。多数で投票して決めるというところに安全感が生まれるのだ。
このように考えると、投票した方が、自分だけでなく、他の投票者の負担も軽減されることになる。自分の一票で決まることはないとしても、自分の一票で助かる人たちもいるのである。
間違った政党に投票してしまったらどうしよう、っていう不安を言っていた若者もあったな。だから投票したくないということなのだろう。
僕は選挙権を持つようになって、最初の頃は選挙に行くのも楽しかったものである。当時は自民党を応援していたのだ。90年代前半までは。以後、自民党に幻滅して、選挙がイヤになった時期があった。それで罪悪感に襲われたりもした。なんでこれまで自民党なんかに投票したのだろうなどと、後悔のような気持ちもあった。それからしばらくは選挙に行かなくなった。大体2000年頃までだ。
それは正しくないと自分で思ったから、再び投票するようになった。間違ったことをしてきました、だから止めますってのは反省でもなんでもないのだ。本当に反省した人はそういうふうにはならないのだ。間違ったことをしてきました、だから正しいことをやりますってのが本当の反省の姿なのだ。
以後、僕は自分が正しいと思える人なり政党なりに投票している。その政党や人が間違っていたのなら、僕は今後とも正しいと思える党や人に投票する。
もし、自分が投票して、その政党があまり良くないことをする政党であることが分かったとしよう。それで投票者が責を問われることはないのだから心配しなくていいのであるが、だから選挙に行きませんってなるのは少し問題になるということである。間違えたと思うなら、正しいことをした方がいいと思う。
こんな若者もいた。政治のことが分からないから詳しい人に聞いたそうで、どうやらその人のやるようにしたということであるようだ。
これはけっこう若い人には普通に見られることであるかもしれない。僕たちの時は20歳だった。20歳になると選挙権が付与され、選挙になるとハガキが送られてくる。一番最初の選挙なんて、ある日いきなり見慣れぬハガキがやってきたという感覚だった。今でも政治に疎い僕だけど、当時は本当に右も左も分からないで投票に臨まなければならなかったのだ。やっぱり父親とかに聴いたりもした。いろんな意見なんかにも目を通してみたりしたよ。分かってくるとだんだん自分で考えられるようになっていくものだと思う。最初の内はそれでもいいのではないかとも僕は思う。
呑み屋で働いていた女の子を思い出すよ。彼女は20歳になって、それで選挙のハガキが送られてきたのだ。選挙どうしよう、誰に入れていいか分からないってことを、よりによって僕なんかに打ち明けたのだ。その時はなんて言ったのかな。候補者の掲げる公約に目を通して、自分の価値観に合う人や、自分の助けになるような公約を掲げている人を選べばいいよみたいなことを言ったのではなかったかな。
最初はみんな分からないので、そうして誰かに訊いたりするものだと思う。
さて、他にもいろんな意見があったように思うのだけれど、まあ、これくらいにしておこう。選挙には行った方がよい。投票によって、政治と少し関わり合いになる方がよい。関りが増えるほど、その人の自己が拡張するのだ。自己を縮小したがる人はそういう関りを制限していく。時にはそうしなければならないこともあるのだけれど、やはり縮小よりは拡張の方がいいと僕は考えている。
自分の行動が温暖化を進めているかもしれない、それに気づくと温暖化問題は自分と無関係ではなくなる。その問題に関わって行かざるを得なくなる。こうして自己が拡張するわけだ。それは自分とは無関係ではなくなるのだ。「温暖化のおかげで北海道の米が美味くなった」などと言えるのは自己縮小的な人間の言葉であるように思うのだけれど、若者よ、あんな大人になりたいと思うのかい。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)