10月9日:別れ

10月9日(日)別れ

 

 一昨日、僕は女性友達と別れた。僕がもう嫌になったからである。5月頃からその兆しがあった。僕は、僕たちの間で良くないことが起きているということを彼女に忠告したけれど、彼女は真剣には考えなかった。関係は以前と比べて、荒れていった。それでもなんとか立ち直そうと僕は試みた。

 僕は真剣につき合おうとしたが、彼女から見て、僕はそれに値しない人間だったようだ。お互いに問題はあったし、僕にも反省すべき点は多々ある。彼女だけが悪いとは思わない。

 今回、縁を切ったのは僕の方だ。縁を切らなければ、細々とでも、あるいは中途半端な形ででも、関係は続いていただろうと思う。事情が許せば、それでも良かった。でも、そうできない事情が僕の方にあるのだ。残念というか、心残りなのは、その事情を彼女に分かってもらえることなく、終わるということだ。もちろん、それは僕の側にとってだけ心残りであるという意味であるが。

 

 別れる時は、きっぱりと別れる。それが僕にとっては一番楽なのである。別れることはそれほど辛いとは思わない。一人の人と別れると、この先どこかで新たに一人出会えるものである。僕のこれまでを振り返ると、そうだった。最後にもう一回だけ会って、話し合って別れようという考えは、僕の場合、未練を残すことになる。僕はそういうやり方で別れることができない人間なのだ。別れる時はきっぱりと別れ、速やかに彼女なしの生活を築くことにしようと考えている。

 彼女とのつきあいにおいては、僕はただごく普通の交際ができれば良かったし、それだけを望んでいたのだ。どうしてそれができなかったのかと、僕は悔やむと同時に不思議に思っている。そしてああいう別れ方しかできなかった自分を今は恥じている。

 

 誰かとつきあったり、交際したりということは、お互いに拘束される部分が生じるのが当然である。必然的にお互い相手に拘束されるものである。僕はそういう拘束は自然なこととして受け止めることができる。しかし、彼女はそうではないようだった。自由で勝手気ままに生きたいのであれば、誰とも関係を築かなければよいのである。彼女を拘束するつもりは僕にはない。しかし、彼女の勝手気ままさは多くの人を傷つけてきているのだろう。彼女にはそういう傷つきに気づくほどの共感性を持ち合わせていないと僕は感じている。彼女は自己愛があまりに強すぎるのだ。

彼女の人間関係をいくつも聞いてきた。その話から察するに、彼女はだれからも真剣にされないのだと僕は感じていた。必要とされるけれど、それは「道具的価値」において必要とされているだけなのであるが、彼女はまったくそういうことが見えていなかったようだ。これからも見えることはないだろうと、僕は思っている。そういう彼女が僕にはとても憐れに見えてくるのだ。そして、僕もまた、彼女を見捨てる側の人間の一人になってしまったのだ。恐らく、卑劣で、許されるべきでない人間は、彼女の方ではなく、僕の方なのだろう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 僕にとても大きな痕跡を残した女性と、この日、別れたんだな。交際して幸せだったけれど、苦しい関係でもあった。お互いにもっと成熟していく必要があったのだと思う。これを読むと、別れたくないのに、お互いに苦しみあうのなら、別れざるを得ないと考えていて、そうして決別したことにすごく罪悪感を覚えていたのだなと分かる。せめて、いい別れ方をしたかったと思うけれど、それもまた僕の都合のいい甘えかもしれないな。

(平成25年6月)

 

 

 

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