10月7日:「昔の先生を探す夢」・他

10月7日(火):昔の先生を探す夢・他

 今日は定休日だけど、業者と打ち合わせがあるので、出勤する。職場、営業所に定休日はあっても、僕自身に定休日を設けてはいけないと自分ではそう思っている。

 昨日、DV「被害者」からの電話を受けて、腹の立つ思いがしていたし、ブログでは少々書きすぎたかなとも思う。
 「正法眼蔵随聞記」の中に僕の好きなエピソードがある。ふと、思い出した。お寺の庭にシカが来て草を食んでいる。それを見た僧が弟子をやってそのシカを打ち、庭から追い出させた。弟子たちは「無慈悲なことを」と言うのだけど、その僧は、あのままシカを放っておくと、あのシカは人間を恐れなくなり、やがて悪人に捕らわれるだろう、だから初めから近づかせない方がよいのだということを答える。偉い僧侶の言動は、一見慈悲がないように見えても、内面では慈悲深い心でもってそれをしているのだという話である。
 昨日の電話で、僕が腹を立てていたのは、きっぱりと言えない自分に対してだと気づく。きっぱりと言えないのは僕の中に変な遠慮があったからだ。これは言い過ぎじゃないだろうかとか、相手を怒らせないだろうかとか、気にしながら応じているからだ。あそこできっぱりと言う方が「慈悲深い」行いだったのかもしれないと思う。「そんな自分に都合のいいことだけを期待するのはお止めなさい」と伝えるべきだったと思う。

 何か夢を見たのだけど、断片的しか覚えていない。

(夢)「昔の先生を探す夢」
 「昔、僕が勤めていたクリニックの女性クライアントが、どういうわけか僕に会いに来た。彼女は当時の先生を探していると言う。僕なら先生の居場所を知っているのではないかと思って、それで僕を探し当てて訪れたそうだ。でも、僕も当時の先生方の現在の居場所は知らないので、二人で先生を探しに行くことにする。結局、先生がどこに住んでいるのか分からず終いで、彼女に先生と会わせてあげることができなかった。彼女は先生に何か切実な用があったのだろう、残念だなと僕も思う。すると、彼女は、以前の先生は諦めますと言い、僕にお願いしますと頭を下げる。」
 偶然だけど、今日の夕方、一人のクライアントから予約が入った。月に一度だけお見えになられたクライアントで、僕はもうその方とお会いすることはないかもしれないなと思い始めていた矢先だった。この夢とリンクするような感覚を覚えた。
 クリニック時代、先生方には僕もお世話になり感謝もしているけれど、僕の中ではもう過去にことになりつつある。あのクリニックをライバル視することもなくなり、当時の先生方を意識するようなこともない。この夢は、過去のクリニック時代の体験や確執との心的な決別を意味するようにも思う。それをクライアントがもたらしてくれているのだと、改めてそう思う。

 昨日、腹の中に憤りをため込んでいた僕は、ついつい飲みに行ってしまった。そういう時は無性に酒を欲してしまう。
 飲みに行って、飲むんじゃなかったと後悔する。いいことなど一つもない。虚しさだけが残る。
 今日は仕事を終えると、喫茶店に自らを幽閉し、ひたすら本を読む。アルコールで満たすよりも、活字で満たす方がよっぽどいい。
 昨日からカミュ『反抗的人間』に取り掛かっている。カミュ全集10巻を昔購入したのだけれど、数冊しか読んでいない。買ったものはちゃんと消費しよう、買った本はちゃんと読もうを今の僕はモットーにしている。先月は『ペスト』を読み、今月は『反抗的人間』を読むと決めたのだ。しかし、内容は豊かで素晴らしいのだが、けっこう読むのが疲れる本でもある。気長に読んでいこう。
 あと、今日思い出した関係から『正法眼蔵随聞記』を読み始める。これは意訳の部分だけ読むことにする。それと、小説も読みたいと思い『オコナー短編集』に手をつける。フラナリー・オコナーはすごくいいね。今日だけで4話読んだ。明日にはすべて読み終わるだろう。
 専門分野の関係では、クレッチマー『ヒステリーの心理』を読み始めている。先日古書店で安く購入したものだ。文章、漢字が古いので読みづらいが根気よく読んでいる。クレッチマーにすごく惹かれる。昔の精神科医で、敏感関係妄想の確立で名を残している人だ。「うつ病」に関して理解のある人でもあったようで、その辺り、僕が惹かれるのだと思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 「慈悲」の話は印象的である。表面的には冷酷な態度のように見えても、深い慈悲心からなされていることも多いのである。どんなことでも、何をやったかよりも、どういう気持ちでそれをしたかの方が重要である。
(平成29年2月)

 

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