10月6日(月):ある電話より
今日は仕事は忙しくなかったものの、電話がたくさんあった。業者からのもあれば、どこかの営業関係のもあり、クライアントからのもあれば、問い合わせもあった。
問い合わせの一件は、後でけっこう嫌な気分になった。DV「被害者」からの電話で、なんとか「加害者」の夫にカウンセリングを受けさせたいという話だ。本当は、彼女自身がカウンセリングを受けるのが一番なのだ。彼女が一番苦しんでいるのだから。それに、話で伺った限りでは、この夫はDVを認めようとしないし、それを変えていくことに対してひどく抵抗していることが分かる。こういう人をなんとかカウンセリングに導入してくれという依頼であるわけだ。当然、相当の困難が予想される。
この方の問い合わせで一番困るのが、中間段階を省いてしまうということだ。最終の状況しか考えられなくなっているということだ。最初にこういうことをして、上手くいかなければ他の手段を講じて、上手くいけば次のことを考えましょうというふうにはできないのだ。一足とびで最終の結果を求められるので、話をまとめるのにこちらも非常に骨が折れるのだ。
その最終の段階のものが得られるかどうか、その確信が得られるかどうか、納得するまで引き下がらないという感じの女性だった。粘着的なDV「被害者」タイプの人だなと僕は思った。却って「加害者」からDV行為を引き出してしまうような人なのかもしれない。当人自身が不安に耐えられないためなのだろう。
夫の側の抵抗というのは、問題をすり替える形で見られる。例えば、夫は妻に暴言を吐く。彼によれば、そういう暴言が普通に横行する家庭で育ったために、自分の中では自然なことだと言う。しかし、その環境など関係はないのだ。その暴言を吐きたくなっている時の感情、その状況が問題になっているわけであり、本人がその行為をしたいかどうかにかかっているものなのだ。
大抵の「加害者」はそんなことをしてしまうことを嫌悪する。しかし、コントロールできないのだ。それをコントロールしていきますという誓約を立てて一人で「治そう」とするのだが、元々、コントロールできていないものを「これからはコントロールします」と言ったって、結果は見えている。
実際に会ってみないと何も言えないことではあるけれど、この夫はDVを否認し続けるだろう。それを自分の問題とは受け入れられないだろう。環境がそうだったからと言ってごまかしているようなことをしているのだから。
僕は思う。DVというものは最初の一回目から取り組まなければならないものだと。「被害者」は相手のDVをしばしば黙認する。黙認するということは、相手のその行為を許したわけではなく、その暴力を積極的に承認していることである。「あなたがわたしを殴っても暴言を吐いてもOKよ」と言ってしまっているようなものなのだ。
ああ、しかし腹が立つ。正直に言うと、憤りを感じる。「被害者」は動こうとせず、「加害者」を送り込んで、「被害者」のために「加害者」を変えてくれと頼まれるのは、なんだか一方的に利用され、操作されているような感じがする。そういう「被害者」のために仕事をする気にはなれない。自分を変えていくために受けるのであれば、「加害者」であろうと「被害者」であろうと大歓迎なのだが、他の誰かを変えてくれと押し付けられるのはウンザリだ。自分勝手すぎやしないかね。
まあ、そういう話は本サイトで<テーマ>を組んで再び取り上げることにしよう。
クライアントからの電話は、予約の電話だったけれど、しばらく間が空いていたクライアントもいた。嬉しいことだ、ウチのことを覚えてくれているのだから。
今月は出だしが低迷だった。企業も下半期に入るので、何かと動きの多い月だと思うが、そういうことも影響するだろうと思う。でも、こうして電話を受けていると、まだ光明が失われていない感じもする。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
他人(夫とか親とか)を何とかしてくれと申し込まれることは多い。でも、申し込んできたその人は、この問題に対して何をしようというのだろう。傍観者のままでいようということなのだろうか。それなら何も変わらないことは明白である。
(平成29年2月)