10月30日(月):「地震の夢」
(夢)「地震の夢」
部屋で横になっている。地震が来たことがわかった。地面が揺れていたわけではないけど、ガタガタといった音がするので地震だと思った。見ると、背の高い本棚が、まるでゴムの棒のように、右に左にと揺らめいていた。僕は最初は気づいていなかったけど、その本棚の横に一人の女性がいた。なぜか上半身裸の女性だった。彼女は僕のところに縋り付いてきたけど、僕はまず服を着てきなさいと彼女に言った。
(連想と感想)
風の強い日だった。窓からの風で寝室のドアがガタガタ鳴っていた。それが地震を連想させたようだ。
グラグラ揺れる本棚は、僕は実際に阪神大震災の時に見た光景だった。1995年に見た光景と同じ感じだった。繰り返しこのブログでも書いているけど、今年は初心に戻りたいと考えている。初心に戻るとは90年代の僕に戻るということでもある。震災を経験する前後の時期だ。
感覚的に、昔を思い出すことが多い。その感覚と通じるのかもしれない。かつて見たものを夢で見る。今はそれを見た当時に近い心境なのかもしれない。
夢の女性は95年頃の出来事から飛び出すような形で登場している。当時と関係のある女性だということになれば、僕にとってはNさんしかいない。僕の人生を変えた女性だ。僕にとっては生涯忘れられない女性なんだけど、もう一度、彼女のことを思い出した方がいいのかもしれない。彼女との間で僕が経験したことを見直してみるのもいいかもしれない。
ところで、こういうところでユングの言っていることは正しいと感じるのだけど、生活や人生が一方的というか一面的になりすぎると、それを補償するような形で夢に異性が登場するということを言っている。その通りであるような気がしている。
僕があまりに男性原理で生きるようになればなるほど、それを補う形で夢に女性が出てくるのかもしれない。そんな気もしている。
前回の「お宝発見ツアーの夢」の女性にしろ、今回の女性にしろ、どちらも現実には未知の女性であるが、僕に対しては友好的である。でも、前回の女性は自分本位で、周囲と衝突ばかりする女性だったし、今回はいつもハダカでいるような女性だった。抽象して言えば、十分に社会化されていない女性として登場しているとも言えそうだ。
こういう女性が補償的に登場するということは、現在の僕があまりに男性原理になり過ぎ、社会的になり過ぎようとしているのかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)