10月28日(金):ケータイの話
僕が携帯電話を持っていないと言うと、大抵の人は驚く。「不便じゃないですか」とか「珍しい」とか言われる。不便と言えば、僕の周りの人たちにとっては不便かもしれないけれど、僕自身は不便を感じない。珍しいというのは、今時の人にしてはということだろう。でも、ケータイって、持た「なければならない」ものなのだろうかとも僕は思う。
以前はケータイも持っていたのだけど、ストーカーみたいな人に関わってしまって、それでケータイ恐怖症みたいなものにかかってしまったのだ。それ以来、ケータイは持たない。
だから、僕のケータイに関する知識は一昔前のものである。そこで時間が止まってしまっているのである。最近のスマートフォンとかは、ホント、「何、それ?」という感じである。
僕の女性友達のケータイが壊れて、この機会にスマートフォンに変えたと話してくれたことがある。ケータイショップで、二時間近く、その使い方の講習を受けたそうだ。新しい物が登場すると、必ずそういう手間がかかるものである。いつぞや、新聞でも、「ようやくパソコンの使い方が分かってきたのに、今度はスマートフォンかよ」みたいな記事を読んだことがある。僕はその気持ちよく分かると思った。
何か新しい物が登場すると、僕たちはそれに振り回されてしまうものだ。新しいものが便利なのは、それが使いこなせるようになったらという前提条件付きで、僕は同意できる。しかし、便利さを実感するまでには、いくつもの困難を経なければならないようである。先に不便を体験しなければ、便利さを実感できないというのも、おかしな話である。
さて、持ったら持ったで便利かもしれないが、持たなければ持たないで便利なものである。ケータイを持たなくなると、余計なメールや付き合いの電話で煩わされることがなくなった。新着メールをチェックする必要もない。メル友を維持するために神経を使うこともないし、絵文字に工夫を凝らしたりするような手間もない。また、ケータイを持ったかとか、失えないかとか、どこかに忘れてしまわないかといった心配も不要になった。必要な時は、固定電話から相手に電話をかける。用件を簡潔に伝えるようにしなければならないし、できるだけ一回の電話で済ませるようにする。そこには若干の神経を使うとは言え、全体的に見れば、ケータイでダラダラとコミュニケートするよりも、はるかに効率的である。
僕の個人的な体験に過ぎないけれど、ケータイを手放して体験したことは、持たない方が楽であるということだ。拘束から解放されるような感じを僕は体験している。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
新しいものが常に便利であるとは限らない。それは多くの拘束をもたらすだろう。僕たちはそうしてあらゆる拘束に絡み取られてしまうのだろう。持てば持つほど、それを使用したくなり、使用すればするほど、煩雑な作業に囚われてしまう。こうして、人は自分自身に関わる時間とエネルギーを搾取されてしまうのだろうな。
(平成25年8月)