10月26日(火):選挙に
今日は火曜日。僕の定休日だ。唯一自由に動ける日だ。
今朝、選挙に行ってきた。自民党には投票しない。それだけはハッキリしていた。
政治も変わらないといけない。30年も経済成長していない国だ。要するに、30年間貧困化の道を進んできたわけだ。これを改善しなければならない。
国が貧しくなるとどういうことになるか。コロナのような災害の対応も十分にできないのだ。そして災厄をダラダラと長引かせてしまうと、生きていけない人がそれだけ生まれてしまうということだ。本当はオリンピックなんかやってる場合ではなかったのだ。
虐待問題も無関係ではない。親と子それぞれのパーソナリティということもあるけれど、貧困層では虐待が増えるというデータもある。貧困になるほど、生活にストレスが加わるので、虐待しない親であっても虐待に走ってしまう可能性だってあるわけだ。せめて先進国並みの経済を発展させなければならない。
虐待と言えば、リモートも一因であると僕は思う。子供が学校にいけない、親も会社や職場に行けない、その他、人の集まる場所に行けない。家族全員が家に籠らなければならない。緊急事態宣言中であれば耐えることもできるが、その代わり、できるだけ早く災害を収束しなければならない。そこをダラダラやるので家族も苦しくなるわけだ。適度に距離を取ることが許されないとなると、家族と言え、否定的な感情が生まれてしまうのだ。家族も「密」すぎてはしんどいのである。
まあ、政治の話は止そう。選挙の後、河原町の方へ出た。本を一冊買うためだ。買いたい本があって、それは長年探し求めていた本だった。先日、古書店で発見したのだ。その時は買うかどうかで迷って、迷ったときは見送るという僕のルールに従ったのだ。そして、後日、やっぱり買っておいたら良かったと後悔しているのである。
もし、売れていたら諦める。とにかくお店に行く。売れていたらいいなという気持ちもありつつ、売れずに残っているのを見ては嬉しく思い、ついつい買ってしまう。読む時間が確保できるかどうかも考えずにである。手元に置いておけば、いつでも読めるだろうと軽い気持ちで買ってしまった。
用事を済ませたついでにその辺を練り歩いてみる。平日ということもあるんだろうけれど、それでも京都は人が少ないなあという印象を受ける。高槻の方が賑やかじゃないかとさえ思う。いろんなお店があって、通り過ぎる時にチラチラと店内の様子をうかがう。どこともあまり繁盛している感じがしない。きっと厳しいんだろうななどと思い、歩く。
お酒も解禁になっているのだから、昼呑みでもしてやろうかと思った。確かに呑み屋もやってるし、真昼間でも客が入っておる。それでもなんか、呑もうという気にはなれなかった。感染が怖いとかいうのとは別の理由だ。
周辺をさらに歩く。昼ご飯くらい食べたいなと思うのだが、何も食べたいという気にならない。腹は減っているのだけれど、食べたいものがない。お店を見て回るけれど、食指が動かされるようなことはない。喫茶店でも入ろうかと思ったが、喫煙不可のお店ばかりでゲンナリする。
パチンコ屋に入って、一服。こういう店には喫煙室がある。そこで一服しながら、この後どうしようかなどと考える。食べたいものもない、買いたいものもない、入りたい店もない、することがないなあということになる。結局、馴染みのお店がなくなるからこうなるのだ。新しいお店を開拓しようという元気がない。仕方ない、帰るか。
帰宅するつもりが、高槻まで出てしまう。用もなく職場に入る。あとはずっとパソコン作業をする。買った本も少しは読んだ。もうここいらで今日一日を締めくくろうかなとも思った。
いや、そういうわけにはいかない。まだまだ活動量が足りない。ということで夜の街へ繰り出す。
高槻は賑やかだ。宣言が解除されて、初日の昨日は雨だったので、その分、今日の人出が多いのかもしれない。飲食店も一生懸命客を呼び込もうとしている。町はこうでないといかん。これくらいの活気がないと寂しいものだ。
駅周辺を一周していつものコンビニに。缶ビールとパンを一個買って駐車場で飲食する。このパンが昼食だ。お店に入ってもいいのだけれど、人が多そうだ。それに食べたいと思うものがないのだからしょうがない。
さて、久しぶりに行きつけの呑み屋に顔を出すか。おお、おるおる、いつものメンバーが。みんな相変わらずでなによりだ。そこで少しばかりの楽しいひと時を過ごして帰宅となった。まあ、今日はこれくらいで勘弁しておこう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)