10月23日:ミステリバカにクスリなし~『闇に蠢く』 

10月23日ミステリバカにクスリなし~『闇に蠢く 

 

<乱歩を読む~『闇に蠢く』> 

 

 乱歩の最初期の長編小説の一つ。連載当初は中絶してしまったのを、全集に収めるに当たって、書き足し、一応の完成をみたという作品である。また、本作は「小説の中の小説」という構造をとっているが、この構造の意味は後で取り上げたい。 

 

 洋画家の野崎三郎は、彼が理想とする身体美をもつモデルのお蝶と出会い、お蝶との関係に溺れていく。 

 お蝶には秘められた過去があり、ある日、お蝶は三郎に駆け落ちすることを持ちかける。三郎はお蝶を連れて、信州の籾山ホテルにて隠遁生活を送る。ところが、幸福も束の間、お蝶は近くの底なし沼に落ちてしまう。悲嘆に暮れる三郎を友人の画家である植村が慰問する。 

 植村はお蝶の過去に関する情報を知っているのだが、ホテルに到着した時、宿泊客の進藤を見て驚愕する。進藤は、お蝶の事故当日に来た客で、ホテルの主人とは旧知の仲ということだが、お蝶の過去とも関係がある人物だった。 

 野崎、植村、進藤、そしてホテルの主人の4人を中心に、お蝶の過去、謎の女とその子守歌の声、進藤の正体と主人との間に生じた過去の出来事などの謎が絡まっていく。そして、地下洞窟に生き埋めされる主人公ら、カニバリズム、ホテルの炎上、野崎三郎の復讐と物語は展開していく。 

 

 短いながら内容が濃く、結末はいささか壮絶である。物語の初盤と終盤ではその世界観も異なり、不思議な読後感を残した。地下洞窟の描写など、いくつかの場面では後の「孤島の鬼」を彷彿させる。 

 本作も乱歩のいくつかの長編にあるように、最初は中絶して、最後まで完成させることができなかった作品である。中絶した理由は分からない。でも、本作は「小説の中の小説」という構造をとっていることから、乱歩の個人的な嗜好が色濃く投影されすぎたためかもしれない。 

 カウンセリングでも経験するのだけれど、人が自分の内面的なもの、それもなかなか人に打ち明けられないような内面のものを表現する時に、しばしばそれを他人のこととして語ったりする。本当はそれは自分のことなのだけれど、他の誰かの話として表現するということをするのだ。そうすることで内面の個人的な事柄に距離を置くわけである。ストレートには表現できないけれど、間接的になら表現しやすくなるわけだ。 

 だから乱歩には、本作を、実際には自分で書いたのだけれど、これは他の人が書いた作品であるという形にする必要があったわけだ。僕はそのように捉えている。 

 だから、乱歩はかなり苦悩しながら、自ら防衛機制をふんだんに発揮しながら、本作の筆を進めていったのではないだろうかと僕は思う。その帰結が中絶である。それ以上、書き進めることができなくなってしまったのだと思う。 

 先ほど、「孤島の鬼」を彷彿させると述べた地下洞窟の場面がある。本作ではそこにカニバリズム、つまり人肉食が持ち込まれているのだが、「孤島の鬼」ではそこに同性愛が持ち込まれている。この相違は注目に値する。発達的観点に立てば、人肉食は人生のかなり早期の段階(早期口愛期サディズム)であり、同性愛はそれよりも後期の段階(エディプス期の不完全な遂行)である。本作の執筆に乱歩が苦労しただろうと僕が思うのもその点にあって、本作ではそれだけ退行の度合いが強いわけだ。退行が初期の段階であればあるほど、人は精神的に生き辛くなるもので、乱歩に何があったのか知らないけれど、それだけ早期の段階のものに取り組んでいたのかもしれない。 

 述べたいところのものや考察してみたい部分は他にもあるけれど、あまり深入りしないでおこう。いつか機会があれば取り上げてみたいとは思う。閉所恐怖症の人や残酷な描写は苦手だという人にはお勧めできないけれど、小説としてはそれなりによく出来た作品ではないかと感じている。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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