10月22日:ギャンブル依存3 

10月22日ギャンブル依存3 

 

 ギャンブル依存について、今日も書いていこう。 

 僕はカウンセリングをしているけれど、ギャンブル依存を主訴にして来られる方はほとんどない。他の主訴に伴って、ギャンブル依存が問題になっているという例を多少経験したに過ぎない。そういう人たちと会っていて、思うことがいくつもある。そして、それはギャンブル依存の人にとってはとても致命的な部分である。 

 実は、ギャンブルそのものをやめることよりも、その致命的な部分を何とかしていくことの方がはるかに難しい。でも、そこを何とかしないと、その人は再度ギャンブルの魅力に憑りつかれてしまう可能性が高い。 

 その致命的な部分とは何かというと、彼らの帰属感情である。現実にどこにも所属していないという人もあれば、所属はしているけれど孤立しているという人もある。一言で言えば、社会的なつながりに乏しいのである。 

 僕の考えでは、ギャンブルというのは、とても「自閉的」な活動である。いや、「自閉的」というような言葉は望ましくないな。誤解を招きそうだ。むしろ「自開的」であり「他閉的」であると述べる方が正しいだろうか。実際、ギャンブルに興じている時、その人の心の中に誰かが存在しているだろうか。親しい人も、愛してくれている人の存在もまったく見失って、ギャンブルしていることが多いのではないだろうか。他者を完全に心の中から締め出していて、そういう状態でパチンコ玉を打っているのではないだろうか。僕はそう思うことが多々ある。つまり、彼らの中に、関わるべき他者が見失われているということが問題であり、それが彼らの抑制力を失う一因なのかもしれない。 

 そして、現実にそういう他者がいない場合もあれば、現実にそういう他者を失う場合もある。後者の場合、失ってみて初めて自分が何を失ったかに気づいたりすることもある。 

 だから、彼らにはそういう他者とのつながりというか、ネットワークがもっと必要なんだけれど、現実には正反対の結果を自らにもたらしてしまっていることも結構あるものなんだ。 

 そもそもギャンブルというものは極めて個人的な「遊び」だと思う。「独り遊び」の域を出ないものだと僕は捉えている。一緒に感情や体験を共有する人もいないのだ。そして、しばしば彼らの中にはそういう「独り遊び」に慣れ親しんでいる人もあるようだ。つまり、ギャンブルに手を染める以前から、孤独だったという人が少なくないのだ。少なくないと言っても、別に統計をとったわけじゃない。ただ、僕はそういうイメージを持っているというだけのことだ。そして、それはあながち間違ってはいないだろうと信じている。 

 だから、彼らがギャンブルをやめたとしても、彼らが社会の中で生きられないのであれば、何も改善したことにはならないと僕は考えている。いささか極論であるかもしれないけれど。それに、それはある意味、究極の目標でもあるし、それが簡単には実現できないというのが現実だ。 

 ギャンブルは彼らの何かを埋め合わせてきたと僕は捉えている。彼らは自分の中に何かが足りない、何か欠乏しているという感じを抱いて生きてきたのではないだろうかと思う。ギャンブルは少なくともその代理物として埋め合わせてきたのかもしれないけれど、それが本当にはその人を満たしてくれないから、依存傾向を強めてしまうものなのだ。そして、僕の個人的な見解では、その欠乏している部分というのは、他者のはずだと思っている。他者との関係とか愛情と言ってもいい。これはアルコール依存でも同じことだと捉えている。僕もアル中だったので、そのことが理解できる。 

 だから、彼らが人間関係において満たされるということ、人間とのつながりの中で生きていくことの大切さということは、どれだけ主張しても主張し足りないほどなのだ。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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