10月20日(日):バイトより
今月は島根に行ったこともあってバイトも休みをいただいた。その分、他の日はできるだけバイトもしようと思っていた。今月は、島根に行く前は週7でシフトに入り、島根後も週7で入ることにしている。
そういうわけで連日夜勤をやってる。昼の方、つまりカウンセリングの方は来週あたりから増え始めるが、今週はヒマであった。その分、勉強はよくできた。
書き残したいことは多々あれど、どうもすべてを残しておくことは時間的に余裕がないので無理だ。この一週間、つまり、島根から帰ってからのことをいくつか残しておこう。
ローソンの方ではわりとうっとうしい客がおる。チョイチョイ顔を見せる男だ。一人の時もあれば女性を連れている時もある。くだらん男だなと僕は思っている。今でこそ彼女さんがいるけれど、いつか愛想を尽かされるだろうなと僕は思っている。男が常識から外れたようなことをやってると、女の方は彼と一緒にいるのを嫌がるようになるものだ。それでも女の方が平気だとすれば、彼女もまたその男と同水準の女に過ぎないということだ。もちろん、今の話は男女を入れ替えても言えることなんだけれど、僕の個人的な見解では、女の方が男の非常識な言動にガマンがならなくなる。しばしば上手く行かない夫婦ででくわす光景である。
ポケモンカードを買った連中も印象に残っている。彼らは手に持って重さを計ったり、包装の上から指でなぞってみたり、中身の厚さを計ってみたり、いろんなことをする。それで、これは違うとか、これは来そうだとか言い合っている。僕は触って分かるのかねと訪ねたが、彼らは分かると言う。それでメシを食ってるプロなんだそうだ。どうやってポケモンカードでメシが食えるのか僕は分からないし、それのプロってなんやねんと思っているのだけれど、彼らがそれでワイワイ楽しんでいる分には罪はないか。でも、もう少し価値のあるものに一生懸命になったらいいのにとも思う。若いのに理想や野心がないのかね。こういうのは自己愛の病理というべきだろうか。
一番くじも、売ってる方は楽しい時もあるけれど、やはり面倒だなと思うことがある。
くじを買う人は、最初は3回とか5回を買うのだ。それでお目当てのものが当たらないと、もう3回とかもう5回とか買うのである。後はそれのリフレインとなる。結局、お目当てのものが当たるまでくじを引き続けるのだ。まあまあなギャンブルである。
売る方は売れてくれるに越したことはないけれど、見ていると、「もうそれくらいで止めときなよ」と言いたくなることもある。あれは客にけっこうな出費を強いるのである。
くじを買う人の中には転売目的の人もいるだろう。僕はそこには口出ししない。金を出して買ったものをどうするかはその人の自由である。大切にコレクションしようと、転売しようと、第三者が口出しできる筋合いのものではない。
でも、僕がつまらないと思うのは、それが本人の努力の介在する余地のないところにある。お目当ての景品を手に入れるために本人は努力のしようがないのだ。ギャンブルにはすべてそういう特徴があると僕は思う。だから僕にはギャンブルというものがつまらなく思える。勝っても負けても、本人の努力に帰属できるところのものが無いのだ。
ローソンでもセブンでも、他のパートさんやバイトさんから慕われることが増えたような気がする。頼られることが増えたなとも思う。皮肉なことで、僕は彼らと距離をとろうと思っているときに限って、彼らの方から距離を縮められる。それはそれでイヤではないけれど、そうして深みにハマってしまいそうで怖い。
僕のような人間は、できれば毎日でも人中に入って仕事をし、客の前に立って「見られる」という体験をした方がいい。
ローソンに入った新人さんが印象に残っている。コンビニ経験者で、よく働いてくれそうな感じの男性だ。あのローソンの間違っている点は、バイトが来ないのではなく、辞めていくところに問題があり、バイトが辞めていくシステムが出来上がってしまってるところだ。ここは説明が難しいところである。確かに仕事が多く、先輩たちは新人さんの世話まで手が回らないことが多い。でも、なんていうのか、もう少し冷血な感じを僕は受けてしまうのだ。そこの人間関係に冷たさを感じてしまうのは僕だけかもしれないけれど、バイトの人たちもなんらかのものを感じとって辞めていくのではないだろうかとも思うのである。
お客さんの大半はいい人たちである。クレーマーとかキレるようなのは、僕が知っている範囲では非常に少ない。たまに厄介なのとかが来るけれど、数の上では少数だ。
年齢・性別に関わらず、社会適応のしっかりできている人はクレーマーとかにはならないし、キレるということもない。そうじゃない人の中に厄介な人が含まれるということである。でも、社会適応の上手くいかない人の皆が厄介な客というわけではない。
僕たちは常に「適応」を求められている。どこのお店に行っても、そこの店に、そこで働く店員さんに、僕たちは「適応」しているとみなすことができる。社会的な場面で適応のいい人は、その他の場に行ってもいい適応をするはずである。そういうことである。
適応ということを前面に出すと誤解を招く恐れもある。それは順応というのとはちょっと違う。順応の一部は適応とみなすことはできると思うが、それでも両者は別個の在り方である。それは別の機会に譲るとして、適応を試みるのは自分のためである。その場に適応した方が、結果的に、自分の状態を良いものに維持できるからである。相手や場も良い状態を維持できればそれに越したことはないが、僕は基本的には人は自身のために適応を図るものだと思っている。
僕もまた客の一人一人に、仲間の一人一人に適応しようと試みている。もっとも、自分ではそんなに器用にはできていないと思っているのだけど。不器用ながらにそういうことも目指しているわけだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)